「A Day in the Life」はあまりにも難解で偉大すぎる。

https://youtu.be/usNsCeOV4GM
なあ、今日の新聞を読んだんだ。
成功した幸運な男についてだ。
まあ、その報せは悲しいものだったがね。
なんとも、ぼくは笑ってしまったよ。
その写真を見たんだよ。

彼は車の中で意識をトばしてしまった。
彼は赤信号に変わったことを気づけなかった。
野次馬は大勢立ち止まって見ていたよ。
奴らは彼の顔に見覚えがあったが、
貴族院議員だってことは誰もわからなかったのさ。

なあ、今日は映画を観たんだ。
ちょうど英軍が戦争に勝ったところで、
観客はそっぽを向いてしまった。
けれど、ぼくはしっかり観ていたよ。
その本を読んだことがあったんだ。

お前を振り向かせてやりたいよ。

〜目が覚めると、ベッドから落っこちていた。

だらだらと櫛で頭を梳かしたら、

いつもの階段を降りて、紅茶を一杯。

ふと見上げて気がついたよ、「遅刻だ」

コートを見つけて、帽子を掴んで、

なんとかバスに間に合った。

いつもの階段を昇って、煙草を一服。

誰かが話しかけてきたけど、ぼくは夢の中。〜


ああ…


なあ、今日の新聞を読んだんだ。
「ランカシャー州ブラックバーンに四千個の穴」
まあ、その穴はかなり小さかったらしいが、
彼らはそれをすべて数えたんだよ。
そして知った、アルバートホールを埋めるには
どれだけの穴が必要か。

お前を振り向かせてやりたいよ。

ーーーーーーーーーーーーーーーー。

他の方法はわからなかった。ハハハッ、他のやり方はわからなかったよ。ハハハッ、他の方法は見つけられなかった。ハハハッ、他のやり方は見つけられなかったよ。ハハハハハ…


我々は五分間で何ができるだろうか?
三○○秒で何ができるだろうか?
理解することはできるだろうか?
見つけることはできるだろうか?
また、それとは異なるものはどうだろうか?
個人によって、時間の短長は異なる。
五分間が短いか、長いか、その結論は至って簡単である。
それは人生の尺度で変化するのだ。
そこに、我々が、他者が関与する余地などないのである。

五分間、この楽曲に耳を傾けてほしい。
いや、もはや聴く必要すらない。
三○○秒間、歌詞を読み続けてほしい。

どうだろうか?
この時間は短かったか?
あるいは長く感じたか?
これが五分間に収まるということ自体、違和感でしかない。
人生を語る上で、あまりにも短すぎるのか。
壮大さ故に長すぎるのか。
どうかその意見を心に刻んでほしい。

原題「A Day in the Life」は、正確に和訳すると「人生の中の一日」。
一面においては、つまりは「日常」、つまりは「通常」である。
著名人の死、事故現場に群がる無知な大衆、戦争と、わざわざ赴いて見たくないものから眼を背ける愚者。
そして稀に起こる珍事と、それを餌として無様に生きる情報の発信者。
それに言及する者すら、その情報を糧にすることでしか意見表明をできないのだ。
まさしく、これは現代社会においての「日常」そのものだろう。
この楽曲が生み出された1967年時点で、彼らがこれを理解していたことすらそもそもの驚愕であるが、しかし、日常を語るにはあまりにも歌詞の異常性が目立って仕方がない。

その点、間奏に挟まれた「日常」はどうか?
一日は落胆から始まり、倦怠感と同棲する社会秩序への義務は、それこそ時間を忘れるほどに憂鬱である。
加えて、その義務故に縛られるということもまた、致し方ないことである。
その喧騒が過ぎた後には、ささやかな快楽。
その快楽の前には、他者が関わる隙はないのだ。

この二つの「日常」は、似て非なるものであり、非にて似るものだ。
ハードボイルド的な写実的現実を描いている上では、確かに同一性は感じられる。
しかし、その中での着眼点はあまりにも乖離しすぎている。

何故か?

Beatlesを語る上で、「この楽曲は誰が書いたものか」という論争が存在する。
個人的な見解として、このような論争はまったくもっておこがましい。
「Lennon = McCartney」という偉大な存在が、既にブランド化してしまっていることは悲愴この上ない。
前提として、彼らの存在が二人で一人、一人のみでも生きていける上で、二人で一人なのだ。
これを鑑みて、私は一つの真実を述べたい。
やはり「A Day in the Life」も、彼ら二人で一人が生み出した最高傑作の一つなのだ。
一説では、〜「」〜 の部分はマッカートニーが、他の部分はレノンが書いたという。
どうしてか、しっくりきてしまう。
それは決して、その部分をどちらかが歌っているから、などといった短絡的な理由ではなく、二人が錯誤した結果として、一種のカオス的世界観が生まれているからである。
「Imagine」をはじめとする、偉大なる楽曲たちを創ったジョン・レノン。
「Band On The Run」をはじめとする、偉大なる楽曲たちを創ったポール・マッカートニー。
彼らの異次元的想像力・異次元的創造力が交差し、結合し、混合し合って完成した結果は、どうしても「カオス」なのだ。

私は、「天才」という言葉を使いたくはない。
天から享受された才能など、世界の稚児である人類にとって、あってはならない不正である。
故にこの世の「天才」とは、努力によって為された結果であって、当事者たちにそのようなレッテル貼りをすることは、心底無礼極まりない。

この楽曲を聴いてはどうだろう?
到底、彼らに匹敵する人間など、この世には存在しない。
これはあくまで相対主義な価値観でもあるが、根本的にこのような世界観を創造できること自体、まずもって我々には不可能に近い。
彼らの後には様々なバンドが生まれた。
その彼らは、彼らとして、また別の性質を以て新たな道を歩んだだろう。
しかし、どうしたってBeatlesという存在は偉大すぎるのだ。
彼らは誰もがなし得なかったことを成し、誰もが羨むほどの偉業を終結させた。
あまりにも、偉大すぎる。

私は、言ってしまえば「A Day in the Life」に人生を狂わされた。
更に言えば、「TheBeatles」に人生を狂わされた。
この楽曲の歌詞について、ひどく長いあいだ考え続けた。
しかし、結局のところ、彼らは何が伝えたかったのか、何がこの楽曲の主題なのか、何が本質なのか、結論は出せなかった。
あるいは、結論などないのかもしれない。

「他の方法はわからなかった。他のやり方はわからなかった。他の方法は見つけられなかった。他のやり方は見つけられなかった」
最後の最後でこのようなことを言われてしまえば、もう何も考えられはしない。

何故この楽曲が評価されるのか。
それは、必ずしも曲調構成や文化的影響に限った話ではない。
曰く、視覚的かつ刺激的だ。
曰く、単なる歌というよりも一つの映画だ。
以前の彼らにはない、新鮮なアイデアの一つかもしれない。
四十人編成のオーケストラ隊をポップ・ロックに導入することすら、異常である。

それでも、本質は違うのだ。

最終小節の一拍を聴いてみたら、すべての思案は無に帰する。

あまりにも、彼らは偉大すぎる。

あなたはどう思うだろうか?

願わくば、「お前を振り向かせてやりたいよ。」

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