音楽は役に立たない〜災害罹災の経験を通して感じること

1995年に阪神大震災を東灘区で経験したことを書きます。震度7エリアでしたが、住んでいた建物の形状が幸いして半壊に留まり、半月そこで配給食糧と水だけで凌ぎながら仕事をするという経験をしました。震災2周目に取引先の厚意で確か2回くらい有馬温泉の旅館を使わせてもらって風呂に入るなんてことをさせてもらったのですが、そこから車で当時の職場だった三ノ宮(ビルが全壊したので実質的には元町旧居留地)に向かう道すがら景気付けに爆音でJBあたりをかけてみたんですが、自分が音楽に全く反応できなかったんです。この時に自分の感情のネジというか精神的な状態が普通でないことに気がつきました。もちろん楽器を触るなんて気持ちも起きません。半月後に垂水区に疎開し(震源は東灘よりはるかに近いのに被害がほとんどないのが当時意外でした)、初めて楽器を触ってみましたが全然身に入らないというか吹く気になれない状態でした。帰り際に通りがかった商店街のおばちゃんに「音楽は人の心に力を与えるものだから頑張らなあかんで」みたいなことを言われたことは少し響きましたが、それでも音楽を聴いて心が反応できるようになるまで3ヶ月ちょっとかかったように記憶しています。それに気づいた時、涙が出た記憶があります。精神的に極限状態に追い込まれると音楽などのアートは人の役に立たないということを身を以て知りました。

2011年の東日本大震災の後、割と早い時期から音楽で勇気付けよう、みたいな感じのボランティアがありましたが、私には神戸の経験が重くてすぐに被災地に行くことはしませんでした。しなかったというよりはできなかったという感覚が強いです。阪神大震災の後、神戸でルミナリエというイベントが始まりましたが、最初の年はイルミネーションが消灯になったら廃墟状態の真っ暗な旧居留地に引き戻されたので、その現実に引き戻される寂寞感がものすごく辛かったのです。音楽をやってる時間だけは少し気晴らしになるけど、終わると破壊された被災地の現実に引き戻されるのがものすごく辛いだろう、と。東京でも自粛ムードみたいなのがありましたが、東京は実質的に無傷で被災地ではないのでむしろ音楽はやるべきと思っていました。今はもうない神楽坂のジャズバーで近所の友人が経営しているスタジオからキーボード借りてきて演奏してたのですが、終盤くらいにやってきたお客さんが涙をこぼしてました。それだけでやる意義があったと感じました。

だから東日本大震災の後に被災地に楽器を届けるボランティア活動で被災地に行くことにしたのは3年目の2014年のことでした。全てがそうではないと思うのですが、3年という時間の中で現実を甘受する感じが生まれてたというか、逆に子供達にとっては音楽が精神的な逃げ場としてワークしているような印象を受けました。この時にアメリカからボランティアで演奏に来ていたドラマーのアキラ.タナのOtonowaと陸前高田でジョイントできたことがきっかけで2015年にこのバンドで被災地ボランティアツアーをしました。このツアーのために東北民謡をベースにジャズっぽく書いた曲を持って行きました。反応がとても暖かく、この曲を持って行ってよかったと思いました。

今年の元旦の能登地震でも多くの被害が出ています。能登半島の中核都市である七尾市は何十年にもわたって海外のジャズフェスティバルと提携したフェスティバルを開催しており、音楽文化を大事にしている地域です。今回の地震で壊滅的な被害を受けてしまったのがとても残念で悲しいのですが、復興の道筋がある程度ついて人心が落ち着いて音楽やアートを受け入れる精神的な余裕が出てきたらその時に音楽をお届けできたらなぁ、と思っています。

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