スシローペロペロ事件からはじめる古典との向き合い方
私はまだ『スシローペロペロ事件』の動画、またはそれに付随して掘り起こされたさまざまな迷惑行為の動画を閲覧できていない。そして(不可抗力で動画が目に入ってしまうようなことがなければ)今後も一生それを見ることはないだろう。
私はいわゆる共感性羞恥と呼ばれる傾向を強く持っているため、このような類の映像を見ることがとても苦手だ。と同時に、極度の天邪鬼でもあるため、世の中で話題になっているコンテンツをあえて遠ざける習性がある。
そんな私でも、流石に『スシローペロペロ事件』の概要は知っている。大手回転寿司チェーンのスシローで、少年が「醤油差しや湯呑みを舐めたり」「唾液のついた手で回転している寿司を触ったり」する様子をSNSにアップし、その動画が拡散されたことでスシローの運営会社である株式会社あきんどスシローが多大な風評被害にあっている、という理解で大きく間違っていないはずだ。『おでんツンツン事件』から連綿と続くSNSによる企業に対する風評被害は昨今さらに大きな社会問題になっているということだろう。
この事件を受けて巷では「少年にどれだけの責任があるか」「なぜ若者は度が過ぎたリスクを負うのか」「ネットタトゥーをどう防ぐか」「違法でなければ何をしても良いのか」などなど、様々な議論が巻き起こっている。(ような気がする)
この記事では、この事件を受けて私が強烈に感じたことを書きたいと思う。
今回の事件における当該少年を語るときに、彼の知性を疑うような意見を見ることが多い。つまり「リターンとリスクを計算することができないほどに幼稚である」というものだ。確かにその意見にも一理ある。普通に考えて、企業に対する妨害とも取れる映像をネットに公開する行為は、それで得られるリターンをはるかに上回るリスクを内包している。少年はまだ社会を知らないからそのような一般的な判断ができなかった。そのことにどこまで責任を追求するかは置いておいて、確かにその要素は否定できないだろう。しかし、この問題から汲み取れるものはそれだけではないと思う。彼らは本当に「リターンとリスクを計算できていない」のだろうか?
私はここに「世代間価値観のギャップ」があるのではないかと考える。
彼ら(ここでは未成年〜20代前半を想定)にとってのリターンとリスクは、私たち(ここでは30代後半を想定)のそれと果たして同じものなのだろうか。私は決してそうではないと思う。彼らにとってのリターンとリスクは、私たちが思い描くそれとはもはや質的にも量的にも異質なものなのではないか。リターンとは主体の価値観をベースにしたプラス方向の出来事であるから、主体の価値観が違えば、当然異なる主体におけるリターンは別種のものとなる。そして、今回のケースにおいてのリターンは承認欲求であろう。ネットでバズる。それによって色々なオンライン上のアイコンとの関係性が構築される。そして構築された網の目は、それ自体が主体の評価に変化する。そのような出来事に対する価値の認め方が、彼らと私たちでは決定的に違うのではないか。
もしかすると、私たちから見て「明らかにリターンとリスクが釣り合っていない行為」が、彼らから見ると「普通にリターンとリスクが釣り合っている行為」と見えているのかもしれない。この事件について語る上で、このような世代間価値観のギャップを無視することはできないように思う。
もちろん、仮に彼らにとって『スシローペロペロ事件』のような行為が、どれだけ大きなリターンが期待できる行動だったとしても、それに伴うリスクがあまりにも大きすぎるため、その判断は稚拙だったと言うしかない。(話をシンプルにするためにモラルについては省略)しかしそれでも、彼らが無意識に行なっている「リターンとリスクの計算」の前提になっている価値観は、私たちが想定するそれとは全くの別物なのには変わりない。そして、私たちは彼らの価値観を想像することはできても、彼らが見る世界を同じ目線で見ることは決してできない。
そう言う意味で『スシローペロペロ事件』は、世代間価値観のギャップを端的に見せてくれた事件なのだと思っている。
話は変わるが、私は数年前にそれなりの田舎に引っ越しをした。とりあえず、今住んでいるところに骨を埋める予定であるし、子供がいるということもあって、その自治体におけるイベントには出来るだけ顔を出そうと考えている。そんなこんなで、今は町内会の組長をしている。という環境なので、地域のご老人方と会合をする機会も割と多い。これまでの人生で(仕事関係以外で)ご老人と触れ合う機会があまりなかったから、それ自体は非常に新鮮で面白いものだ。しかし、そこで出会う価値観には一定の驚きがあった。そこには未だ男尊女卑の観念が強く残っているし、閉鎖的な価値観があるし、変化を拒もうとする強い力が存在している。私は、比較的保守的な人間だと自己評価していたのだが、田舎の自治体に放り込まれると、むしろリベラルな人間になってしまう。それぐらい、これまで生きていた世界とギャップがあったのだ。つまり、ここでも世代間価値観のギャップを感じたのである。
当然、自分の価値観が正しくて、上と下の世代の価値観が間違っていると言いたいわけではない。下の世代から私の価値観を見たらそれは化石みたいなものなんだろうし、上の世代から私を見たら理解できない気持ち悪い生き物に見えるのだろう。世代間価値観のギャップはお互い様の問題なのだ。
(もちろんその世代の中でも、比較的価値観が柔軟な人間や、世代よりも若い/円熟な価値観を持っている人もいるだろう。あくまでもこれは世代の傾向の話である。)
思うに、干支が一回りすると価値観のずれが表れ、二回りするともはや埋めようのない価値観のギャップが生じるのではないか。私はこれを勝手に『干支ギャップ』と名づけている。
当然、干支が二回り違う人間同士が仲良くやることもできる。しかしそれは、価値観が真に一致しているわけではなく、その他の要素が複合的に合致している状態だと思われる。だから、それが個別的な関係ではなく全体的な関係(政治など)になると、もはやそのギャップを埋めるのは困難なのではないか。実際に、干支ギャップが埋められないことによって停滞している様々な政策の例は枚挙に遑がない。私はここに民主主義の限界があるように思えてならない。
さて、以上の内容を受けて古典について考えてみたい。
古典となった文学や思想書。彼らの時代と私たちの時代は、一体干支何周分離れているのだろうか。これまでの文脈で考えると、もはや古典と現代の間には修復不可能なレベルの溝があると考えられる。(国が違えばなおさらだ)個人的に、古典を読むにあたって重要なのは、そのギャップに対する認識だと思っている。「そこにどんなギャップがあるか」も大事だが、それ以前に「そこにギャップがある」というそれ自体の認識である。
古典には最初から強烈な世代間価値観のギャップが存在している。それを意識することではじめてその書物が書かれた背景を想像するようになるし、書かれていることだけでその書物を判断しないようになる。というか、その感覚がないと、古典を楽しむことはできないように思う。その感覚がないが故に「感覚が古い」とか「当たり前のことを言っているだけ」などの感想が出てきてしまう。(その古典が現代の当たり前を先取りして、むしろその当たり前を作ってきたのだから、当たり前のことを言っているのは当たり前なのである。)
とはいえ、歴史における価値観のギャップを自分に照らし合わせて想像するのは難しい。干支二回りレベルの世代間ギャップですらうまく埋められないのだから、それが数十周ともなれば理解不可能で然りである。しかし「そこに価値観のギャップがある」ということ自体を認識しておくことはとても重要なことであり、古典においてのそれを身につけるために、『スシローペロペロ事件』で示されるような比較的近しい世代間のギャップに目を向けるのは、非常に有益なことであるように思う。
私は、全ての物事をネガティブなまま終わらせたくない信念を持っている。何かの出来事があった場合、それを何かしらの糧にしないと気が済まない貧乏性なのだ。『スシローペロペロ事件』についても、それを単に「若いのはやばい」とか「飲食店はしんどい」などの意見で終わらせるのではなく、そこから世代間価値観のギャップを見出し、古典との向き合い方の糧にすることは、なんとも良い昇華の仕方ではないかと思うのである。
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