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他者は自然現象である


私は物理学的世界観を肯定している。人間という存在はどこまで行っても物理的だし、その心すらも(実際どのような仕組みになっているかわからないものの)物理的な現象だと捉えている。だから、死後の魂のような存在を否定するし、人間は死んだら無になると思っている。

そう捉えるのは、それが「正しい」と思っているからでは決してない。私如き人間にその「正しさ」を確定できるはずがない。あくまでもそう捉える方が「便利」であり「しっくりくる」ということである。

ということで、今回は唯物論的な観点で世界を見る「便利さ」について述べたいと思う。

唯物論的な観点で世界を捉えると、人間関係における悩みが激減する。と私は思っている。

一般的に、人が感じる悩みの大半は人間関係に起因するものであると言われる。その悩みには、人間同士がぶつかることによって起きる表面的な軋轢も含まれるが、もっと根本には他者が持つ心の問題があるように思う。他者は心(意識)を持っており、私たちは他者の心を想像することができる。そして、他者の心の質感を自分の心の質感と照らし合わせることで、そこにストレスやネガティブなイメージが表出する。(もちろん逆も然り。この機能によって私たちは喜びに代表されるポジティブな質感を感じることができる。)

例えば「あの人は自分のことをどう思っているのだろうか」と悩んでいたとする。その際、他者が感じているであろう自分に対する心の質感を想像するわけだが、それはあくまでも自分が感じる他者への好感や嫌悪感をベースにしている。だからそれは限りなく内省に近い振る舞いであり、私たちはそれによって他者の意識における質感を自分に転化して捉え直す。そうして、他者に自分と全く同じ性質の質感があると考えるからこそ、そこに悩みや不安が現れるのである。

また、例えば誰かに心ない暴言を吐かれたとする。確かにその暴言自体は自分を嫌な気持ちにさせる。しかし、実は暴言自体が与えるダメージはそこまで大きくなくて、その暴言が出てきた背景、つまり「この人はどんな気持ちで暴言を吐いたのだろう」という他者における質感を自分の質感と照らし合わせることによって、精神的ダメージを増幅させているのではないか。

つまり、人間関係における悩みの多くは「他者に自分と同じ質感を持つ心がある」と捉えることによって生まれているのではないか。

それに対して以下のように考えてみてはどうだろうか。


他者は雨や風といった自然現象の一つにすぎない。


物理的な世界観を肯定するならば、人間はどこまで行っても物理現象の一つであり、それは自然現象と本質的には同じものである。

例えば雨が降ってきたとする。雨が降って体が濡れてしまうことは嫌なことだ。これは間違いない。しかし、雨が降ってきたことに対して、私たちは「意味」を求めるだろうか。どうして雨が降ってきたのだろう。雨を降らせた主体(がいるのだとしたら)はどんな気持ちで雨を降らせたのだろう。先ほどの人間関係の話と同じように「雨」というものに自分の心の質感を転化するだろうか。「雨」に対して、その心の質感を慮ってモヤモヤしたり悲しんだりするだろうか。しないと考えるのが普通であろう。
雨が降ってきたら嫌な気持ちになるかもしれないが、それはそういう自然現象に出会ってしまったという意味であり、それ以上でも以下でもない。だから、その現象に対して考えるべきことは、傘をさすとか、すぐに家に帰るとか、しばらくパチンコをして時間を潰すとか、現象に対して自分が何をするかに限定される。

他者を自然現象として捉えるということは、他者を「雨」みたいな存在だと捉えることと同義である。そして、そうすると便利なことが多い。

人間関係の問題において「自分のできることにだけ集中して、できないことに悩まないようにしよう」的な格言がある。これはまさにその通りなのだが、実際にそう行動できるかというと、これがまぁ難しい。

誰でも他者を変えたいと思ってしまうし、自分ができることを超えたものについて悩んでしまう。

しかし、先ほどの雨の例のように対象が自然現象の場合は、必然自分のできることにだけ集中するようになる。それしかやりようがないからだ。強風が吹いているときに「この風を止めるために何ができるだろう」とは考えない。普通はその場所から逃げるのだ。そして、人間関係もそれで良い。

このように、他者を単なる自然現象だと認識すると、自分ができることだけに集中できるようになり、結果的にそこにおける悩みが減少する。もし人間関係で過度に悩んでいる方がいたら、ぜひ参考にしてほしい。


ただ、このようなことを書くと「それはまた無味乾燥な、心がない人間観ですね」という反論がくるかもしれない。しかし私は、別にこのような考え方でも、例えば愛とか友情みたいなものはちゃんと成立すると考えている。

例えば私には愛すべき家族がいる。
これを物理的な目線で解釈すると、それはいつも近くで発生している物理現象であり、おそらくこれからも自分の近くで起き続ける自然現象なのだ。
これは例えば庭に生えた植物に近いかもしれない。
植物全般には興味がないが、庭に生えた一本の木に愛着を持つ人もいるだろう。そのような方向性で愛は実現しえると思う。そうして、このように芽生えた愛があるとして、それが一般に言われる人間の心を想定した愛と何が違うのかわからない。

また例えば、私には少ないながら一緒にいたいと思える友人がいる。
これを物理的な目線で解釈すると、それは自分にとって非常に興味深い振る舞いをする物理現象である。これは例えば四葉のクローバーに近いものかもしれない。自分にとって、面白いと思える何かがあって、それは他の物理現象とは微妙に違う動きをしている。そのような現象と偶発的に巡り合った因果に感謝して、その現象を長い期間見つめ続ける。そのような方向性で友情は実現しえると思う。そして、このように芽生えた友情があるとして、それが一般に言われる人間の心を想定した友情と何が違うのかわからない。


まぁ、こうは書いてみたものの、私が普段世界を見るときは、いわゆる唯心論的な立場を取ることも少なくない。世界において、人それぞれに科学では説明できない心みたいなものが存在していて、それぞれのクオリアがぶつかり合って人間関係が構築されているように見えるのが普通だと思う。ただ、その中でも少しだけ物理的な目線で人間関係を捉えるようにすると、本当に楽になるのだ。少なくとも私はそうである。


もし人間関係に悩んでいる方がいたら、ぜひ他者を「雨や風」だと思う努力をしてみてほしい。




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