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「障害」とその先にあるものを考える

「尊厳死」そして「安楽死」という言葉に関するたくさんのコメントがぼくのタイムラインにも流れ込んできています。
難病の方の死を「手伝った」医師。
その件から盛り上がった話題のようデス。

ぼくはこの方のように難病を抱えていませんし、医者でもありません。
この方に関わらず、「死」を意識する瞬間の方々の1つ1つの事情にぼくは寄り添うだけの素地も、心のキャパもなく。
ただただ、目の前にある言葉から伝わってくるものを感じ取るしかないのですが。。。
ただ、個別のたくさんの事情ではなく、社会の在り方として言葉をつなぎたいことがありマス。

社会制度としての「尊厳死」そして「安楽死」を議論する時。
そして、特に社会制度を作ることをぼくらから委託されている政治家がこの言葉を発する時の彼らの背景にあるものに対してデス。

話はそれるようですが、「障害」という言葉を人に使うと「障害者」となります。

これは「障害を持つ人」という意味となり、「一般の人」に対して特定の機能が劣っているということを指しているかと思いマス。
その「劣っている部分」が「障害」であり、その「障害」をもつひとのことを「障害者」とよんでいるということであろうと思いマス。

ずっとずっとこの言葉の定義に関して、ぼくの中には疑問がありました。
自分がうつ病を患ってからはなおさらデス。

「うつ病」という病気を患ったぼくは「人より人付き合いが難しく」「社会参加が難しく」「長時間の労働が難しい」から「障害者」なのだろうか?
障害者という言葉はまったくもって受け入れがたい言葉になっていきました。ぼくの中で。

「うつ病」と向き合い、家族の協力も得てちゃんちき堂を起業し、1つ1つ販売チャンネルを開拓し、行商というライフワークともなる生業を得て、今、ぼくは家族とともにここにいます。

自分なりのやり方で社会に参加し続け、生業から日々の生活の糧を得、そして小さな小さな経済を回しています。

ぼくにとって、「うつ病」とは「障害」であるのだろうか?
それとも、後天的に得た「特徴」であるのか?
ぼくは「障害者」なのか?
それとも、西多摩ではたぶん唯一の「シフォンケーキの行商人」なのか?

この「もやっ」とした疑問に答えてくれたのは「gente 人を通して障害を識るフリーペーパー」でした。このフリーペーパーはcafeころんに常設しています。興味があったら手に取って読んでもらえたらうれしいデス。

このgenteには一字一句同じではありませんが、このような言葉がつづられています。
「障害者」とは社会に参加する時に、その「障害」を社会が作り出し、その「障害」に直面している「人」のことである。
ぼくの中では、この言葉が長年のもやもやを形にしてくれる言葉となりました。

ぼくは思いマス。
もし、「うつ病」という病気がぼくにとって「障害」になるのであれば、それは「うつ病」という病気を「障害」として社会参加の壁とする「社会の側」にこそ「障害」があるのだと。

この「病気」という「特徴」を理解し、「特徴」を活かし、マイナス面を許容し生きていくことを選んだぼくと、それを受けれいている今の社会にぼくは「障害」を感じていません。だからぼくは障害者ではありません。

但し、それはその他のぼくのパーソナリティー上の特徴や、能力も含めた「ぼく」のことであって「うつ病」という病気を抱えたすべての人にとって、この社会が「障害」になっていないかと言えばそうではないと思いマス。

同様のことが、様々な障害を抱えている方々に言えることだと思いマスし、同様に遠く100年前に比べて社会の「障害」はある意味「テクノロジーの進化」とともにクリアされてきた面もあるかと思いマス。

そして、常について回る「自己責任」という言葉とは別に。
そして、情緒的な話とまったく別な議論として。

社会に存在する、ぼくらを「障害者」とする「障害」の壁は1つ1つクリアされていくべきものだとぼくは思いマス。

「多様性」を尊重するという言葉は、このことと表裏一体であると思いマスが、「障害」の壁をクリアしていくこと、そして「多様性」を尊重できる社会を作っていくことは単純に「外部内部に発生するストレスに強く」「生産性を向上させる」手段を社会に提供する方法であるとぼくは思うからデス。

例えばこの国には100万人を超えるうつ病患者がいると言われています(潜在的な方を除いて)。
その内の何%が社会参加ができなくなっていて、その内の何%が社会のセーフティネット上にいるのかぼくは知りませんが、一定程度の方がそこにはいることと思いマス。

その方々が「テクノロジー」で解決できる手段、そして「社会のルール上で解決できる手段」さらに「社会の寛容性によって解決できる手段」等で社会参加できるようになった場合、労働人口が減っていくと言われているこの国において、数万人単位で生産性が上がることを意味していないでしょうか?

さらにまた、今「健常」であると定義される人の幅が広がり、その広がりを支える「テクノロジー」「社会ルール」「寛容性」によって構成される社会は、おそらく確実に「現社会」よりも変化、特に急激な変化に対して強靭な力を得ることと思いマス。

情緒の話ではなく、社会は「多様」に向かって進むべきであり、人間を除く動物たちがさまざまな本能によって自然界に適用していったように、人間はこの「多様」を認める集団が構築する「社会性」によって、地球上のありとあらゆるところでの生存を可能にしてきたとぼくは思いマス。

また、話はそれますが、ですから「多様性」とはすばらしいことでも何でもなく、「一人一人がオンリーワン」というようなポジティブなメッセージでもなく、一人一人の特性が「素晴らしく、選ばれた誰か」ということもなく、ただ多様であることが当たり前であり、他の動物の本能のように人間という種特有の「本能」の表れに過ぎないともぼくは思いマス。

さて、話は戻ります。
社会制度としての「尊厳死」そして「安楽死」を議論する時。
そして、特に社会制度を作ることをぼくらから委託されている政治家がこの言葉を発する時に、あなたに必要なのは、現社会制度が「死」を願う人にとって、「生」をあきらめる動因となる「障害」になっていないかということではないかと思いマス。

科学技術も同様であり、社会の寛容性を作り出すぼく達一人一人の生き方、行動も同様デス。

「死」を願う人の気持ちに今のぼくは寄り添うことはできません。ぼくはその立場にないからデス。同様に多くの政治家、そして科学技術に携わり、そして社会を構成している方々も。

ぼくらは誰かの想いを完全に理解することはできませんし、だからこそ、どのような言葉でも間接的にしか他人の人生に影響を与えることはできません。

唯一できることは自らの行動を変化させ、それによって社会を変えていくことデス。
今も存在し、新たに現れる「障害」を1つでもなくす社会を作り出すために政治家ができることは山ほどあります。
科学技術の進化は確実にその恩恵をぼくらの社会に及ぼしてきました。
その社会を構成するぼくらの意識はその進歩に追い付いているとぼくは思えません。

だからこそ、その一歩一歩の先に、「障害」が次々と消えていく社会の先に「生」を考える人も「死」を考える人の在り方は続いていくのではないでしょうか。社会の在り方によって変化をしながら。

現状の社会環境が変わらない前提で、「生」を考え「死」を考えることの意味をぼくは理解できないのデス。
今、そこに直面していない場合にデスガ。

特に変化を他者より委託され、それができる立場にあり、そこの議論を深めているとは思えないあなたの言葉はデス。

読んでくれてありがとデス。サポートしていただけたら、次のチキチキ5(リアカー)作れるカモ。