さかなのこ 観ました

 知り合いがSNSでこの映画を観たと書き込んでいたので、私も少し遅れて観賞してきました。原作を読んでいない状態だったので、映像化のプロセスが分からず、途中で何度か困惑しましたが、エンドロールで冷静になって振り返り、おぼろげながら何で分かり難い演出や構成が入り組んだのかということを理解したつもりになりました。

 この作品の主演は「のんさん」です。彼女を彼として演じさせることに関しては、それほどの違和感はありませんでした。多分ですが、根底に同じような脈と言うか一致があるのだと感じました。もちろん、彼女が過去に「あまちゃん」を演じていたこともその一致に通じているのだと思います。

 演出として出演する「ぎょぎょおじさん」(実際のさかなクン)は、何度かお会したことがあったので、彼の魚に対する熱意というか、さかなそのものぢゃね?(笑)と思ってしまうような博識さは理解しているので、みー坊がギョギョおじさんの家に行った時点で嫌な予感というか結果がみえていました。現在の観点からすれば確実にVNGな考え方もこの映画の背景となる「昭和レトロ」の状況下では、納得してしまうのではないでしょうか。なので、あのシーンを「おぃ、おぃ!」と思うか「あるある」で感じるかは、世代や魚(さかな)愛の熱量によると思います。

 時系列ではありませんが、みー坊が捕まえたタコさんをお父さんが〆た後に執拗なまでに打ち付けるシーンは、タコの調理をしたことのない人にとっては衝撃だったと思います。ただし、あのシーンは焼いたタコさんをみんなで食べて、ちょっと間の抜けた感じの構成にしていますが、原作のさかなクンにとっては重要な意味があったのだと思います。おそらく、その後に四人の家族が映し出されるシーンが無かったことを考えると、当時の家庭環境を反映したバイオレンスなシーンだったと思います。

 脈略も無く、お母さんと2人で住んだり、その後は一人になり、やがて友達が子供を連れて一緒に住み込み、その親子も消えるようにいなくなってしまいます。記憶が断片的になるほど悲しい思いをしながらも、魚に情熱を捧げることで正気(周りからは常軌を逸しているようにみえますが)を保っていたのでしょう。

 この物語の救いは、その突き抜けた魚好きによって成功の道が開けることです。これは好奇の眼を向けられるほどの魚好き(魚に限りませんが)にとっては、非常に喜ばしいことです。このオタク度の闇が深ければ深いほど、単に良かったねぇ~ではなくて、本当に心の底から良かったと安堵の涙が出てきます。多分、そのような経験をしたことのある人ならば、魚が好きでなくても自分を投影して泣けると思います。
その成功をアシストした「狂犬」(ヒヨ)は、こんなに魅力的なみー坊を純粋にみんなに知って欲しかったのだと思います。そのような意味では、総長もカミソリ籾もペットショップの店長もみー坊の良き理解者だったのだと思います。

 人は一人では生きることができません。しかしながら、この人を支えたいとか、この人をみんなに知ってもらいたいと思わせるに至るには、並大抵のレベル(魅力)ではダメだという事です。

 私は、この映画に根底にグランブルー(ぐらんぶるじゃないよ)の影がチラチラ見えていました。水族館に勤めたジャックマイヨールとペットショップに雇ってもらったみー坊がオーバーラップしました。

 他にもいくつか印象的なシーンや伏線がありましたが、あまり書きすぎるとネタばらしというか、単に「この映画はこう観る!」みたいになっちゃいますので、できれば映画を観終わった後に(先に言えよ)読んでいただき、共感できる内容が幾つかあればうれしく思います。


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