好みを押しつけない多様性

生きている中で他人との意見の対立は必ずあるものだけれど、それは突き詰めて考えたら、どうしたって「好み」でしかないものを、それを好まない他人に押しつけようとお互いに頑張っているにすぎないなあと感じるようになってから、少なくともぼく自身は自分からはそうした争いを生み出すことはなくなった。

価値観だろうが、政治的な理念だろうが、信仰だろうが、絶対に正しく揺らぐことのない唯一のモノなどある筈がないということは大多数の人間が理解している(と思いたい)だろうに、何故そうした自分の中にある「大して正しくない」何かを他人にまで背負わせたくなるのだろうか。
自分の中でだけそれを遵守し尊ぶだけでは満足できず、海を渡り野蛮人に神の教えを説く宣教師の如くその尊い考えを広めたいという衝動を抑えられないのだ。
そしてそうした使命感に燃える宣教師は、野蛮人に食われる。
物理的に。
骨まで。
だって上から目線でどうでもいい教えを押しつけてきたら気分が悪いよな。

これはどんな関係性でも同じであって、パートナーでも親子でも結局は他人同士なんだから、思想信条や価値観まで共有する必要はなく、共有させようと働きかける権利だってないのに、一部の方々はどうしても他人の中身を自分と同じように誂えないと不安になってしまうのだ。
それはとても傲慢な考え方であり、やられる側からしたらとてつもなく不愉快なんだと想像する余裕もないのだ。

「俺は俺の好きにやるから、君もそうしなよ。お互いに理解なんてできないけれど、天気の良い日はたまには一緒にメシでも食おうぜ」
みたいなテンションで、互いの中身になんて踏み込まず、勿論それを矯正しようだなんて考えもせずに、同じ場所で生きていくことを本来は多様性と呼ぶんだよな。
自分が不愉快になる存在をどうしても我慢できず、それを何とかしなければ気が済まないという傲慢さを全人類が捨てようとしない限り、多様性を大切にする社会なんて訪れる筈はないし、仮に訪れたとしてもそれは多様性の中に入れたくない存在を消し去った結果生まれた恐ろしい社会でしかない気がするな。

多様性のある社会って大多数の人間にとっては基本的には愉快なものじゃない。
自分にとって不愉快な存在を受け入れて共に生きていかなければならないという、わりとストレスの溜まる社会でしかない。
そうした社会において自分はどう在るべきなのか、考えてみるといいかもしれない。











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