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彼がかたくなに拒否したものは何か? ゴンチャロフ『オブローモフ』

 あーっ、やってしまった。残りはゆっくり読むつもりだったのに、先へ先へと読んでいく目の動きを抑え込むことができなかった。……ということで、ゴンチャロフ『オブローモフ』を読了。これで奈倉有里『ロシア文学の教室』は、最終講義トルストイ『復活』を残すのみとなる。

 ロシア文学の教室も11講を終えると、19世紀ロシアの風景に、すんなり入り込めるようになった。大きな時代のうねりに翻弄される人々。制度の変化だけではなく、意識の大きな変革に迫られた人々が、どのような対応をみせるのか。旧時代の考えに固執する人、新しい考えを先取りしようとする人、どっちつかずで宙ぶらりんの人、時代の変化なんかどこ吹く風で私欲に走る人。遠い時代、遠い国なのに、どこか既視感のある人たち。これまで読んできたロシア文学には、どの作品にもそんな普遍性が感じられた。

 結局、旧時代から一歩も出られないまま死んでいくオブローモフは、どこまでも、うじうじとだらしなく、あれこれ夢見るプランを一つも実行できない。なのに、彼から目が離せない。オブローモフは、時代の花形である、社交や経済の世界に酔う人々に対し、「どうして、あんなことに熱中できるのかわからない」と言う。「自分の夢見た人生は、そんなものではない」と。

 1859年に書かれたこの大作は、「オブローモフシチナ」(オブローモフ主義・生活することと仕事をすることを恐れる男)という言葉を生み出し、当時のロシアの貴族階級やインテリゲンツィアに共通する気質として批判されたという。日本でいえば、幕末、明治維新のころである。「高等遊民」とは少し語感が違う。どちらかというと日本の引きこもりやミニマリスト、中国の「寝そべり族」に近いか?

 資本主義の始まりであった19世紀のロシアと、資本主義の終わりを迎えようとする現代には、共鳴するものがあるのかもしれないし、人間性と私たちが呼ぶものに通底するものがあるのかもしれない。ゴンチャロフの『オブローモフ』は、これからも読み継がれ、読者のなかにいるオブローモフを刺激し続けるだろう。

 人はみんな、いくばくかのオブローモフとシュトルツを抱えて生きているんだろうな。ちなみに、ぼくの構成要素は、「7:3」か「6:4」でオブローモフ優勢だな、なんて考えている。

 次は、ついに「ロシア文学の教室」の最終講義、トルストイ『復活』である。ちょっと覗いてみると、岩波文庫の版組が目に優しい。ありがたい。



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