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文学であり史料である。一粒で二回おいしい『ロシヤは誰に住みよいか』

 ネクラーソフ『ロシヤは誰に住みよいか』谷耕平訳を読了。

 未完の長編叙事詩だが、それでも岩波文庫で341ページ。読み慣れない叙事詩、それも長い(長すぎる)ので、おっかなびっくり読み始めたが、すぐにそのリズムと独特の(訳に使われている昭和30年代の農村)言葉にも慣れた。1961年初版、1988年の第二刷本で読んだが、大きな違和感はなかった。

 小説や詩は時代を超越した芸術だと思う。それは確かにそうなのだけれど、同時に時代を記録した〔史料〕でもあることを強く印象づけられた。

 ロシヤの農奴制がどういうものであったか、その解放期に人々がどういう動きをしていたのか。その時代の変化が、地主にとって、官員にとって、神父にとって、商人にとって、農婦にとって、どういうものだったのか。世界史やロシア史のテキストではわからない、その時代に生きた人の具体的な肌触りが浮かび上がってくる。もちろん文学作品は創作物だから、それをまるごと事実として受け取ることはできないが、少なくとも筆者にそう書かせる状況が存在したのは事実だろう。

 こんな本を読むと、何かわかったような顔をして毎日を過ごしているけれど、ぼくは何にもわかってないなぁと、がっくりしてしまう。

 暴力が世界を作ってきているということ。単純な暴力。経済に姿を変えた暴力。信仰や倫理の姿を借りた暴力。知らんぷりをしていても、その事実はいまも変わらないし、自分がその世界に加担していることも揺るがない。あーあ、なのだ。

 そういえば、田中康夫も『なんとなくクリスタル』(1980)について「時代の記録を残すつもりで書いた」という意の発言をしていた。『ロシヤは誰に住みよいか』で、小金を持った農夫たちがウォッカを飲んで大騒ぎする様子に似ているかもしれない。

 奈倉有里『ロシア文学の教室』に導かれてのロシア文学巡りも、そろそろ終盤。これで十講分が終わった。あとはゴンチャロフ『オブローモフ』とトルストイ『復活』を残すだけだ。どっちを先に読もうかな?

 ……タイトル画像にブリューゲルを探したのだが、見つけられませんでした。残念。ブリューゲルの汚れた農夫たちが描かれている風景画をイメージしながら読んでいました。

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