見出し画像

大きさも柔らかさも変わらない。    口いっぱいにほうばる幸せの飴。


大船渡市 チダエー「エイサク飴」

 巨大な回転釜のなかでは、ドロドロに溶けた水飴が下からの火に炙られてマグマのように泡立っています。まだ見たことはないけれど、地獄の釜というのはおそらくこんな感じじゃないかしら。まんま灼熱地獄なその鍋の前に立つ、白衣姿の千田昭夫社長。おもむろに一升瓶のお醤油をドボドボと投入し、あろうことか勢いよく泡立つ水飴のなかに指を突っ込みました!

画像1

地獄の釜ではありません。飴です。

「飴のかたさは手で触って確かめるんだけど、熱い飴が手とか顔とかにはねると、ほんとにヤケドすっからね。でもうちの親父は見て覚えろの人だったから、ヤケドしてでもつくり方を覚えてきたんだ」。
 …伝統とはいえ、沸騰した飴を素手で触るとは。見た目も甘さも平和的な大船渡の銘菓「エイサク飴」が、こんなデンジャラスな工程を経てつくられているとは思いもしませんでした。
 しかし、これはほんのプロローグ。醤油が入ってさらに勢いづいた水飴の頃合いをみて、千田社長はおもむろに回転釜を傾けます。水飴は、回転釜の隣に置かれたこれまた巨大なホットプレートのような鉄板の上に、まるで山体崩壊してあふれでたマグマのように広がりました。冷たい鉄板に触れ、見る間にピチピチと固まりはじめる水飴。そのはじっこを掴み、洗濯物を扱うがごとく中心に向けて折り畳んでいく千田社長。赤茶色の透明な水飴は、空気と一緒に折り畳まれることで次第に絹のような光沢を放っていきます。

画像2

マグマじゃありません。飴です

 その変幻ぶりに目を奪われている間に、掴む、畳む、掴む、畳むを繰り返した水飴はモッタリと固まりました。この間ほんの数分、素手で触るにはまだまだ危険な熱さですが、千田社長は素早く両手で飴を持ち上げて、工場の真ん中にある巨大な製白機へセットして機械を稼働。グオングオンと巨大なアームをぶん回す機械に絡めとられ、飴はどんどん白く、そして質量も増えていきます。エイサク飴の特徴である柔らかさと口当たりの軽さは、こうしてしっかりと練って空気を含ませるからこそなんだなあ。

画像3

飴を製白機へセット。気合いを入れて、一瞬で

 エイサク飴は、千田社長のお父様の栄作さんが今から80年ほど前にここ大船渡で考案しました。いちばん最初は黒糖味一種類だけだったそうで、その後工夫を重ねてバリエーションも増え、ごま味やきなこ味など7種類あったことも。エイサク飴という名は先代が付けた訳ではなく、いつの間にかそう呼ばれるようになったというのがほほえましい。「栄作さんが作るんだからエイサク飴でいいべ」…そんなことを言いながら、飴をほおばる大船渡の先人たちの姿が思い浮かんできます。
 さて、飴づくりはいよいよフィナーレへ。パッチローラーという、練り飴を棒状に成形する機械に入れるために細長く伸ばしていく千田社長。白い手粉にまみれたその指先で太さをはかり、素早く機械へ送っていくさまから目が離せません。やがて飴はローラーで丸められ、パチンパチンとカットされ、あのおなじみの形の飴が作業台いっぱいに広がりました。

画像4

絹糸の束のよう。


 「うちの飴は柔らかくてでっかいの。そりゃ固い飴も作れっけど、昔からの特徴だから変えねえ」。
 穏やかな声音で、でもきっぱりと千田社長は話します。その思いがあるからこそ、あの東日本大震災で工場が流出しても再建へと立ち上がることができたのでしょう。しかし真新しい工場で、昔ながらの味を再現するのは並大抵のことではなかったはず。特にも水飴を溶かす釜の違いには苦労をし、何度も何度も試作を繰り返したとふりかえります。昔も今も、釜で煮溶かすのは飴仕事のかなめ。その塩梅を見極めるのは千田社長にしかできません。

 この日はお会いできませんでしたが、いまでは千田社長のお孫さんがエイサク飴づくりを手伝うようになっています。父から息子へ、そして孫へ。三代目がつくるエイサク飴にお目にかかれるのは、いつの日でしょう。
                     (取材日/2015年2月23日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?