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「根ざす」ということ/東日本大震災から10年、被災地取材を通して感じてきたこと

東日本大震災から、まもなく丸10年を迎える。
今年も、いろいろなメディアで特集記事や番組が組まれ、復興の進ちょく具合や総括、それに伴う新たな課題といったことが場所や視点を変えながら慌ただしくリポートされている。
3月11日は多くの人が被災地に思いをはせる記念日なのだ。

だがそれも、今回かぎりなのかもしれない。
「けじめ」をやたら連呼する偉い人や「節目」というフレーズを繰り返す新聞やテレビを見ていると、もういいでしょ10年も経ったんだからという空気が世間に漂っていることを感じる。

たしかに10年という時間は、それなりには長い。
赤ん坊は小学生になるし、高校生は立派な社会人になるし、団塊の世代は後期高齢者になる。
でも、あの大震災にずっと向き合ってきた人の気持ちを「10年」というものさしでひとくくりにして、そして精算することはできるのだろうか。

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▲福島県双葉郡大熊町。災害公営住宅前にて

そう思うようになったのは、2017年からとある雑誌で、東日本大震災で被災した方々へのインタビューを重ねてきたからだ。
月一回、岩手、宮城、福島を中心に回ること4年。お話を聞かせていただいた方は39人を数える。

あの日をいかに乗り越えて今を生きているかを語ってもらう内容だが、まずは震災でどのような経験をしたのかについてを聞かなくてはならない。

必死に伸ばした手を掴むことなく、目の前で夫が津波にのまれていった人。
いつもの朝、笑顔で送り出した愛娘をバスごと津波に奪われてしまった人。
先祖代々慈しみ暮らしてきた郷土が、原発事故で人の住めない場所になった農家。
感情的にならず聞くようにしていても、
淡々と状況を語るその人の内にある悲しみや悔しさ、苦しみ、後悔に心が反応し、胸が苦しくなる場面が何度もあった。

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▲宮城県南三陸町。震災遺構となった建物から望む三陸の海

記憶を風化させる要因は、時間に加えて関係性によるところも大きい。
ボランティアをきっかけに今も被災地に関わり続ける人がいる一方で、
被災県に住んでいても津波被害の過酷さや原発被害の非情さまでは知らない人がいる。

私がそうだった。岩手県とはいえ津波被害のなかった内陸在住がゆえ、復興予算のついたお手軽な仕事でしか被災の現実に立ちあってこなかった。
某紙でのインタビュー連載は、単に被災県のひとつに住んでいるからという理由で選ばれただけだとしても、私自身の東日本大震災との向き合いかたを大きく変える仕事になった。この4年、私は被災地との関係性をゼロから積み上げてきた気がする。

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▲全線開通した常磐線。車窓からの浪江駅

連載は、今年の2月号で終了した。
インタビューをした39人の方々とこの先再会する確率はとても低いだろう。

だが、その一瞬の感情や考え方に触れたこと、そこで私自身が感じたことをあらためてまとめておくことで、いつかまた誰かの心に届くかもしれない。39人の体験談は、災害において人がいかに無力な存在であるか、だからこそ人間同士の結びつきがなによりも大事なのだという教訓を、何度も繰り返し私に教えてくれるものだったから。

教訓は金言名句ではない。誰かの心に響き、とどまる言葉だけが真実である。それはコロナ禍の今も、この先も起こり続けるであろう災害でも、私たちが立ち上がって一歩を踏み出す足元を照らす光となるはずだ。

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▲常磐線双葉駅

もうひとつ、書きたかったことがある。
福島県の取材では、風景からも原発事故の非情さを思い知った。

秋、帰還困難区域を車で走っていた時に見た田圃風景。黄金色のこうべを垂れた稲穂を収穫することができない現実は、その美しさとともに脳裏に焼き付いている。

国道6号を走る車窓から見たのは、遠くにかすむ福島第一原発の巨大なクレーン群と、浪江、大熊、双葉の街並み。道沿いの建物はすべてバリケードで封鎖され、住宅は屋根瓦が落ちたまま、車は玄関先に停められたまま夏草に飲み込まれていた。

そこにあったのは、復興から遠く忘れ去られた現実。「根ざす」という言葉を強く意識しだしたのが、あの、人が住めなくなった町のありようを見てからというのは皮肉か、あるいは必然なのか。
ただ猛烈に、多くの人にこの風景を見てもらいたいと願った。

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▲ここも農地だったのかもしれない。大熊町にて

最初に取材したのは、宮城県の若き和牛生産者。牛舎などの被害は奇跡的に少なく、また仲間の助けで飼育も続けられた。若いからこそ困難に立ち向かうバイタリティもある。そんな彼ですら、風評被害の前では何もできなかったという。

福島市で話を聞いた女子大学生は、もっとあからさまな目に遭った。福島産の農産物キャンペーンで訪れた県外の都市で、手渡した桃を目の前で吐き出されたというのだ。刺激が強すぎると記事にはできなかったが、程度の差はあっても風評被害はまだ続いている。

たった1個のおにぎりで絶望から救われたと話してくれたのは、宮城県石巻市の女子高校生だった。三日目の避難所で、やっと口にした米粒だけのにぎりめし。日常とは海に浮かぶ木舟よりたよりなく、だからこそ大事に生きていかなくちゃと、普通の高校生活を取り戻したその目が力強く語っていた。

福島県浜通りでの初取材は楢葉町だった。小さな店を営む若い夫婦は、祖母の記憶の残るこの場所で商いをすることにしたという。少しずつ人が戻り始めた楢葉の、灯台みたいな店だった。その帰路に国道6号の帰還困難区域を通り、この地域で未来を描くことの決意と覚悟を知ったのだ。

飯舘村は前から行ってみたい場所だった。「までい(丁寧な)」というスローガンで、風土とともに生きることを実践してきた農村。風向きのせいで放射能が降り、ようやく避難解除されたのは2017年。いち早く村に戻って土を耕し始めた男性は、飯舘に流れる気風があるという。それは不便や不利を受け入れても故郷を守るという強い意志。その後も飯舘では、大地にしっかりと根を張って生きる方々に出会った。

富岡町を訪れたのは避難指示解除から間もない頃で、新しい市街地には行き交うトラックと土埃ばかりだった。この地で20年に渡り地域医療を担ってきた医師。生まれ変わる町とともに病院は解体されることになり、工事前夜に建物をライトアップしたと話してくれた。暗闇のなか煌々と輝いていた病院は送り火だ。そうやって私たちは記憶を胸にとどめ、前へ進んでいく。

天井近くにまで津波が入った店舗を片付けて商売を再開した、宮城県石巻市の商店主夫婦。ボランティアのための炊き出しに奮闘し、今も彼らから「父さん」「母さん」と呼ばれている。いつも変わらず出迎えてくれる笑顔は船の錨のように、大勢の人をまちに呼び込み、繋ぎとめているのだ。

福島県浪江町で、海沿いにあった蔵が跡形もなく流された酒造会社の社長。再起をはかった場所は、浪江を遠く離れた山形県。水も風土もまったく違う場所で醸した初めての酒は、浪江のころと変わらない味がした。「何者かに酒をつくれと言われている」と震えたという。その酒蔵は今、故郷浪江の米を使った酒を造っている。

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▲震災遺構にあった小さな本棚

災害が変えてしまうのは町だけじゃない。
海産物や野菜がにぎやかに並ぶ、福島県いわき市の国道沿いの商店。店主の女性は津波で出店していた施設が流され、移動販売の最中に見つけたこの場所で再開を果たした。その後は食堂や加工場も立ち上げている。震災前、仕事は遊びの延長だったと振り返るその顔には、仲間と雇用を守る経営者の覚悟が浮かんでいた。

壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町で、瓦礫の中に花を植えた人たちがいた。その後団体を立ち上げ、語り部をするなど精力的に活動したメンバーの一人である男性の原点は、若い頃に大阪で体験した阪神淡路大震災だった。できるときにできることをする、そうやって地域は再生していく。

はじめて訪れた宮城県名取市閖上は地平線がすっかりあらわで、たくさんの家がひしめき合っていた場所だとはとても想像できなかった。
この町で亡くなった240名を弔い、人々のよりどころとなるべく再建を果たした寺。本堂を支える柱は瓦礫の中から現れた当時のままの傷だらけである。満身創痍で立ち尽くすその柱に、いいようのない救いを感じた。

海の街には、船員が立ち寄る銭湯が必ずある。気仙沼市の老舗銭湯は震災10日後から再開し、町の人はもとより全国、いや世界各地から訪れるボランティアの体と心を癒した。変化の時代、生き残っていくことは難しいが、銭湯主は創意工夫を凝らして銭湯の火を守っていた。

飯舘村でそば屋を開く。農家だった男性が故郷で暮らし続けるために決めた道を、妻は朗らかに支えていた。二人三脚で切り盛りし、男性は畑でそば栽培もはじめた。夢は、挽きたて・打ちたて・茹でたてに「いいたて」を加えた「四たて」のそばを作ること。叶えることはできたろうか。

同じ岩手県民として、震災後の陸前高田市は見るたびに心が痛んだ。だからこそここで生まれ育った人の苦しみの深さは想像を超えている。
それでも語り部を続けてきた女性は、「生きることを諦めないで欲しい」とすべての人に訴える。亡くなった人たちの面影を、そして失われた町の美しさを胸に刻みながら。

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▲話を聞いていたら野良猫が寄ってきた。
お前にも、話したいことあるのかい?

暑い日だった。福島県三春町のブルーベリー園で出会ったご夫婦は、収穫に汗を流しながらあの日のことを語ってくれた。三春でも原発事故による風評被害はすさまじく、折れそうになる心を生産者同士支え合ったという。苦難を乗り越えてたわわに実をつけたブルーベリーの木が、丘一面にそよぐ光景は圧巻だった。

移動販売車を追いかけて高台を巡る。岩手県大槌町も津波によって甚大な被害を受けた場所で、山間に住宅地がいくつも造成されていた。多くは高齢者世帯で、車が来るのを楽しみに待っている。移動販売を行う施設の店長は、消費者だけではなく高齢農家から野菜の集荷も引き受けるようしたという。コミュニティを維持する取り組みが続く。

津波にのまれて九死に一生を得た、宮城県岩沼市の男性。
イグネ(防風林)と田圃が広がっていた穏やかな農村は、震災後はユニークな観光施設と公園に生まれ変わった。たとえ住めなくなっても、ソーラーパネルだけが並ぶ故郷にだけは絶対にしたくなかったと喜ぶ。移転先では行政と協同で、懐かしいイグネの再現に取り組んでいる。

根ざして生きることを体現していた、福島県飯舘村の農家。
農業を目指した頃のこと、野菜の引き売りで評判を得たことを懐かしそうに語ってくれた。品質のよい農作物を作るため米ぬかや堆肥を入れ、何十年も手をかけた畑は、放射能が一瞬にして奪っていった。しかし彼は郷里に戻り、再び土を耕すことを決意する。
村に戻った最初の日、青空で雲雀が以前のようにさえずっていた。雲雀も自然も変わっていない。もちろん人間だって、何も変わりはしないのだ。

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▲2階まで津波が到達した、仙台市立荒浜小学校

多くのメディアに取り上げられた「釜石の奇跡」。当時中学生だった彼女も、自らの震災体験を語り続けたという。
一度は釜石を離れるものの進学した大学で災害予防の大切さを学び、故郷に戻って人々に寄り添いながら生きる道を選んだ。過酷な体験をし、そして大切なものに気づいたからこそ伝えられることがある。彼女の言葉は心に響き、全国各地で防災の芽を育んでいる。

津波で亡くなった弟に見せたいと、瓦礫の中から見つけたこいのぼりを掲げた男性。青空を泳いだ一匹のこいのぼりはやがて1600匹もの大群舞となり、宮城県東松島市の春を彩る一大イベントになった。打ち鳴らす太鼓、空を埋め尽くすこいのぼり。太古から受け継がれてきた祭礼のように、この先100年200年後の人たちにも震災を伝えていく存在になればと彼は祈る。

7年半ぶりに酪農を再開した福島県葛尾村の男性。生来の負けず嫌いと笑うが、飼養規模1000頭以上の牧場を、原発事故により無傷のまま手放さざるを得なかった気持ちはいかばかりだったか。現在も採草地のほとんどは期間困難区域の中。ならばと最新設備を導入し、新しい酪農経営を模索する。過去に固執せずに未来を向く、それはこの地で生きていくためである。

ランチ営業も行う浪江町の人気居酒屋。若き店主は全町避難からいち早く戻り、両親がはじめた店の看板を再び掲げた。復興工事に来た作業員のお腹を満たしたいと、ランチは赤字覚悟の大判振る舞い。それが料理人として浪江の復興に関われる唯一の方法だからと朗らかに笑う。そんな元気な店が、浪江では少しずつ増えている。

階段になんとか取り付いて、すぐそばの夫に手を伸ばした。直後、店のガラスを突き破って押し寄せた津波に夫はのまれ…。宮城県気仙沼市の老舗店の女主人の話は、今も頭から離れない。それでも彼女は地元にとどまり商売を再開した。新店舗はおしゃれでモダンだが、顔を見ながら売り買いするという小売の原点は以前の店とまったく変わらない。

岩手県大槌町の若い夫婦もまた、以前と同じ場所に三代続く商売の看板を掲げた。反抗し、時に喧嘩もした父。手作りの料理で心も満たしてくれた優しい母。家もろともすべてを失った夫婦を支えたのは、常連客たちの「再開を待っている」という応援だった。地域の絆は両親からの贈り物。ふたりは新たな事業にも挑戦している。

それは聞いていている時から苦しかった。
宮城県亘理町で暮らしている家族の震災の記憶。あの日の朝、5歳の娘は「お母さん大好き!」と笑顔で家を出て、そのまま帰らぬ人となった。
どうして助けられなかったのか。だが母は誰かを責めるのではなく、こんな悲劇が二度と起こらないよう防災啓蒙に取り組んだ。活動のシンボルは、愛娘の笑顔のように明るくて愛らしいひまわりだ。

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▲南三陸町、2020年12月

福島県大熊町の一部避難指示が解除されたのは2019年。
人気のない街に住民の声が響くのはまだ先のことだが、昨日まで無人だった家に明かりが灯り、帰還者と交わす会話が増えて来たことを交番勤務の警察官は感じているという。出来たばかりのコンビニでは店員と談笑を。
そんな「町のおまわりさん」が、動き出した町の治安を守る。

二度目の名取市閖上の訪問は、名取川沿いに出来た商業施設だった。
経営していた美容室を流され、自身も津波に追われた女性は、恐怖のためしばらく閖上に足を踏み入れることが出来なかったという。新しい店は商業施設の一角にあり、名取川を渡る風と海の香りが心地よい。
恐怖はいつしか、懐かしさと恋しさで塗り替えられていた。

岩手県大船渡市。津波で被災した店の片付けに奔走していた両親を、小学二年生だった彼女はただ見ていることしかできなかった。その時の不安な記憶が、2019年に千葉県を襲った台風15号の被災映像でよみがえり、自分たちにできることをしようと同級生と千葉市への寄付を行った。人の役に立つ仕事がしたい…将来への夢が芽生えた。

東北地方ではまだまだ珍しい大道芸人として活動する男性は、福島県を拠点に体を使ったパフォーマンスを行う。派手な演出や華やかな芸を目指さないのは、震災後、仮設住宅を回っていた時に「技術だけで人を笑顔にはできない」と痛感したから。自分なりに培ってきた話術、アクションは子どもから大人まで笑顔にする。東北に大道芸を根付かせるのが彼の目標だ。

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岩手県大槌町の冬の風物詩は、塩漬けの鮭を寒風に晒してつくる新巻鮭。名人とうたわれた父にならい荒巻鮭づくりに取り組んできた鮮魚店の店主は、津波で店も住まいも失った。失意のなか店の跡地に立つと、荒巻鮭づくりに欠かせない湧き水がヘドロを押しあげ湧いている。その水は、ここで再び商売をしろと伝えていた。自然にも意思がある、そう思えてならない。

7000人もの笑顔の写真を撮りためた、宮城県利府町の男性。それは1年を365人分の笑顔で埋めつくすカレンダーとなって、復興支援への感謝の気持ちと一緒に全国へ届けられ続けた。3年前からは新米果樹農家として特産の梨づくりを先輩農家から教えてもらっている。カレンダーには利府の人の笑顔が溢れるようになった。

岩手県陸前高田市の山中に小さなカフェがある。
そこには赤いポストがあって、震災や事故で大切な人を亡くした悲しみを抱えきれない人の手紙が届く。オーナーの男性は「一人ではないことに気づいて欲しい」とポストの横に手紙を保管する小屋も建てた。まだまだ気持ちを言葉にできない人がいる、続けなければと。

時代を切り拓いてきた実業家の教えにならい、風評被害の真っ只中で規模拡大に取り組んだ福島県伊達市のイチゴ農家の男性。沿岸部からの避難者が涙を流しながら食べる姿を見て、イチゴの持つ可能性に賭けた。スタッフも増え新たにカフェもオープンしたが、コロナ禍が暗い影を落とす。それでもイチゴを届けていく。

自分は震災の当事者ではない。しかし同じ東北人として、出来ることはないか…。青森県青森市の男性の答えは、演劇の脚本を書いて各地で公演を行うことだった。一見すると荒唐無稽な物語には、震災で生き残ったことに苦悩する人たちへ「生きてほしい」というメッセージが込められている。なによりも演劇の力が必要とされる今、再演が待たれる。

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▲双葉町にできた、東日本大震災・原子力災害伝承館

震災で200人以上が亡くなった宮城県仙台市の荒浜地区に誕生した「荒浜地区避難の丘」。現場監督をつとめた建設会社の女性は、震災をきっかけに「つくる仕事をしたい」と猛勉強をして建設業界に飛び込んだ。自身も幼い頃に遊んだ思い出の荒浜が、多くの命を救う場所として生まれ変わったこと、その仕事に携われたことが嬉しく、誇らしい。

なすすべもなく、次々に死んでいく動物たち。震災直後から電源も水道も遮断された福島県いわき市の水族館で、職員の男性は災害が引き起こす現実を思い知る。それでも館長の号令のもとスタッフ一丸となって汗を流し、わずか三ヶ月後に再オープンを果たした。あの時に感じた悔しさや虚しさがあるから、彼らは新型コロナウィルスにだって負けない。

複雑な海岸線が続く三陸の海は本当に美しい。
それを誰よりも知っている、岩手県宮古市の遊覧船のベテラン船長。地震の揺れのあとすぐさま船を沖に出し、2日間を海上で過ごした。昨年夏、会社が半世紀以上に渡る遊覧船事業を終えると発表した後も「安全運航がなにより大事」と舵を握り続けた。たくさんの観光客に慕われた、海の男である。

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津波に撃ち抜かれたまま立ちつくす建物。瓦礫の中でガイドの男性が語るのは、「あなたならどうやって逃げるか」という問いかけだ。
宮城県南三陸町で生まれ育ち、震災で多くの友人や仲間を失った。生き延びた自分ができるのは故郷のいまを伝え、災害を我が事として考えてもらうこと。あれから10年。震災伝承の難しさを抱えつつ問いかけは続く。

人の気持ちに「期限」はない。そう話してくれたのは、岩手県陸前高田市で「思い出の品」と言われる震災拾得物の返還事業を行ってきた女性だ。写真だけでも7万枚近くあり、1枚でも多く家族の元に返したいと市内はもとより仙台や東京でも返却会を開いてきた。それでも未だ「見ることが辛い」という声が絶えない。まだまだやるべきことがあると彼女は話した。

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▲おそらく、双葉町近くだったと思う。
残された舗装道路に、ここにも住宅があったことがわかる

津波に襲われ何もかもなくなった場所に戻った人がいた。
原発被害が残る場所で生業を再開した人もいた。

震災をきっかけに社会問題がいっそう深刻化したといわれる被災地で、
この先も困難や難題を引き受けて生きていくことを選択した人がいるのはなぜか。
そこに自分の「根っこ」があるからだ。

私の思う「根っこ」は、自分という存在をかたち作るためのあらゆる現象である。記憶や体験や感情や、先祖とか歴史とか伝統とか、繋がりや交流も。リアルに家や土地という場合もある。
自分が自分であることを担保してくれる場所。
どんなことになっても、根っこがある場所は変わらないのである。
だから帰っていく。自分が自分であり続けるため。

東日本大震災では、多くの人が自分の根っこを失った。
でも、新しい場所に根っこを張って生きていくことはできる。
故郷に戻った人だって、もう一度その場所に新しい根っこを張っていくことになるはずだ。
そんな生き方を、この4年間の取材でたくさん見せてもらってきた。
ほんとうに、東北の人は強い。

目に見える形での震災復興はもうすぐ終わる。
次の10年は、すべての人が自分の根ざす場所を見つけられようになっていけばいい。

<終わり>


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