見出し画像

Vtuber、理想のVtuber像持ちがち説

2018年7月活動開始系Vtuberのテトランパトルです。対戦よろしくお願いします。
この記事の中では、「Vtuberの中の人」というような表現が多発しますが、少なくとも僕はあくまでバーチャル関西に在住する電子生命体です。中の人など居ません。(外部協力者は居ます。)ご承知おきください。

X(旧Twitter)では、日々さまざまな話題が沸騰中のお湯から湧き出る気泡のごとくぽこぽこぽこぽこ上がり続けている訳ですが、つい最近、「Vtuberが一番面白かったのは中の人が見えないように徹底していたころ。 今は中の人の要素が出すぎてバーチャル感が無くなってしまっている。 Vtuberの価値はもう大手以外ほぼ無いと思う。」という内容のポストが注目を浴びました。

いわゆる「お気持ち」であり、何年も昔から繰り返されてきた「Vtuberこうあるべき論争」の焼き直しみたいなものだと僕は認識してるのですが、なんだかX上では結構な熱を持って反応されている方が多いようです。なんでかなー?とぼんやり考えてみたのですが、結果として「Vtuberの価値」という相当デカい言葉が引っかかってる人が多いんじゃないかなーと思いました。

Vtuberの価値」とは何なのでしょうか。ポスト元の方が主張したいことを考えてみます。
Vtuberが一番面白かったのは中の人が見えないように徹底していたころ。今は中の人の要素が出すぎてバーチャル感が無くなってしまっている。」という内容から、Vtuberは「中の人の要素が出ない=バーチャル感を徹底して維持している」状態が一番面白い、つまり一番「価値」があると主張されているように思われます。
Vtuberの価値はもう大手以外ほぼ無いと思う。」という内容も、大手企業Vtuberさんが中の人ではなく独自の世界観を全面に押し出していることを「価値」として高く評価しているのだと推測ができますね。
なぜそんな「価値」の高い、バーチャル感を維持しているVtuberさんがほぼ居なくなってしまったのでしょうか。誰もが同じように価値を感じているなら、きっとそうしたVtuberさんがより多く残っているはずなのでは? そうなっていないということは、つまるところ「誰もが同じように価値を感じている訳ではない」のではないでしょうかね。
人によって「Vtuberの価値」が異なるから、それを決めつけるようにも見えてしまう元ポストへの注目が高まっているのだと僕は感じました。ポスト元の方もあくまで「お気持ち」であって、他の方へ強制するような意図はなかったと思いますけどね……たぶんね。

今回のポストでは、「Vtuberの価値」という語句が使われましたけれど、これって言い換えると「理想のVtuberとはかくあるべし」という、理想のVtuber像を表す内容だと思うのですがどうでしょうか。Vtuberさんであればあるほど、こうした理想の姿については考えてしまいますし、自分の中に確固たるものを持ってしまいがちなのかなあと、なんとなく考えさせられる話題でした。

僕はとりあえず、誕生日をささやかながらも祝ってもらえたり、6周年記念日を盛大に祝ってもらえたりするような、周りと温かな関係が築けるVtuberになりたいですね! 7月9日が誕生日! 7月25日が6周年記念日です!よろしくお願いします!(ド宣伝)