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我が子は5歳で一度死にたくなるらしい



次女、5歳


「お父さんにもお母さんにも怒られてばっかりだから、私もう死んだほうがいいんだわ」

5歳の次女から、昨日、そんな言葉を言われた。

ああ、まさか、またこの日々が始まるのか、と、思った。

我が子からの「死にたい」の言葉は私の胸に重苦しいものを沈めてくる。

上の子が「死にたい」と言ったのも5歳だったと、ふと思い出す。

我が子が同じ5歳でこの言葉を言うようになるのは一体なんなのだ。

子どもが二人いて、二人ともが同じ事を言いたくなるような育児をしてしまっているのか、私は。

長女から初めてその言葉を聞いたときは本当に驚いて、ショックを受けて、取り乱した。

「そんな言葉いっちゃダメだよ、そんな事言われたら悲しい」

私は必死でその言葉が長女の口から出てくることを止めようとした。

でも止まることはなかった。

毎晩毎晩、何か自分が出来ないことにぶち当たるたびに、長女は泣いて騒いで自分を殴りながら「私なんて死んだほうがいい、いなくなったほうがいい」と言った。

その言葉を言われるたびに私の胸の奥に重たいものが溜まっていく。

多分、死にたいという言葉を受け止める重みなんてわかっちゃいないでこの子はこの言葉を吐いているのだ。

本当に死ぬことがどんなことを意味するかなんてわかってないだろ。

いざ本当に死ねと言われたら死ぬ勇気なんてないくせに。

軽はずみにそんな言葉を言うんじゃねぇ。
毎日受け止め続けて疲れてきた頃にはそんな風にも思った。

でも今になって思う。
私も「死ぬこと」が一体どんなことを意味するのかなんてわかっていない。

何故なら私だって、死んだことがないからだ。

こうやって何かを思って、今まさにPCに向かって文字を打ち込んでいるこの『私』がどこかへ行ってしまうことはわかる。でも。

どこに行くのかは、私だって知らない。

消えてなくなるのか、どこかでまた違う命になるのか、命にはならずなにか別なものになるのか。そんなことは誰も知らない。

ただひとつはっきりしていることは
『死んだら、もう、ここで目の前にいる人とは会えなくなる』こと。

多分それは、子どもにもわかっている。

つまり、『死にたい』という言葉を言うときは

「もう目の前にいる人と一緒にいたくない」
「今ここにいる自分は自分でなくなってもいい」

そういう意味なのだ。

そんな言葉を、5歳の子どもから母親に言わせてしまう自分の育児は一体どこが間違っているんだろう。

5歳の長女にかけた呪い


長女が「死にたい」と言うときには大抵条件があった。
それはなにかに失敗したときだった。

『みんなが出来ているのに自分が出来ないこと』
『出来るべきと自分で思いこんでいることが出来なかったとき』

長女は自分がダメな子なんだと泣いて自分を責めた。

別にそんなこと出来なくていいよと声をかけても、いや、ダメだ、出来るようにならなきゃダメなんだと、とにかく出来ない自分を責めた。

私は、そういう思考になるような育て方をしてしまったことを反省した。

『みんな出来てるから出来るようになろうね』

結局私は、我が子を『普通』にすることに必死だった。
普通からこぼれ落ち続けていた私のそれまでの人生。
それがあまりにしんどかったので、同じ思いをさせたくない一心だった。

大人になってから出来ないことを出来るようにすることは難しいが、子どもの頃から当たり前に出来るようになっていればきっと大人になったとき苦労しないだろう。

今になって思えば、こんなもの”あなたの為を想って”という押し付けであり、おせっかいである。

私は長女に「周りの子が出来ることはあなたも出来るようにならなければいけない」という呪いの種を植え続けた。
私自身、そのことにずっと気付いていなかった。

5歳でその呪いが発動した。

私は自らかけた呪いを自ら解こうとした。
解き方なんてわからないから、最初は呪い返しをただ受け止めようとしていたけど、それではダメだったのだ。

あなたはあなたでいい、出来ないあなたも、何か別な得意なものがあるあなたも、どんなあなたも全部素晴らしいんだと、それまでかけた言葉を一つ一つ打ち消すしか無かったんだと思う。

今9歳の長女は「死にたい」と言った頃の記憶はほとんどない。
本当にそんなこと言ってた?と言うぐらい、当時のことを覚えていない。

多分、呪いは解けたのだ。

長女は出来ないことがあっても「まぁいっか、出来ないもんは出来ないもん」と、笑って流せる子どもになった。その生き方は、端から見ていてとても気持ちがいい。
余計な価値観に縛られていない、自由さ。

私は何であそこまで「周りの子が出来ているのに我が子が出来ない事」にこだわっていたんだろうと思う。

次女にかけた呪いは


さて、長女の呪いはとけた。

私は同じ轍を踏まないよう、次女を育てるときは「みんなが出来ることを出来るべき」という価値観は押し付けないようにしていたつもりだ。

というか、そもそも、次女は「出来ないこと」があまりなかった。
とにかく器用で、人のやることをいつも観察していて、いつの間にか覚えていて、教えてもいないのに出来るようになっている。

勝手に人真似をして、足し算も、やらせていないのに出来る。
繰り上がりのあるものも勝手にやっている。
文字もどんどん覚えているし、下手したら漢字も書く。
絵本もスラスラと音読する。

本当に何も教えていない。

長女に勉強を押し付けたくなかったので、家庭学習だってそこまでやらせていない。だから長女を見て覚えたことは無いと思う。
絵本だって長女のときは必死で読み聞かせていたが、次女には毎日読み聞かせたりはしていない。

なのに、一体何を見て次女は出来ることを増やしているのか。

多分次女が長女だったら、私は長女にかけた呪いをかけることはなかった。

「出来るようになろうね」という声かけをする必要がないほどに、次女は出来ることが多すぎる。

そう、出来ることが多すぎる故に「やらなくていいことまでやる」のが次女だった。大人ならやってもいいけれど、子どもがやるには恐ろしいこと。

包丁を触ること。
カッターで何かを切ること。
高いところにあるものを取ること。

大人が当たり前にやることを見て、次女はそれをよく観察している。
そして多分「大人に出来ることは私にも出来る」と思っている。

そして一人で勝手に包丁を出してきて何かを切ろうとしたり、工作でカッターを使おうとしたり、踏み台に登って高いところのものを取ろうとしたりする。やらんでいいことを、やる。

長女のときは「頑張ってやろうね」と私は背中を押していた。
それが長女にとって負担になった。

そして今、次女には「それはやらないで」と引き止めている。

次女は止められるたびに怒る。
「いいからやらせろよ」と怒って泣く。

ああ、もう、何でこんなに正反対なんだ。

やってみようと声掛けしたくなる長女と、やらないでと静止したくなる次女。

そして思うように行かなくなると次女はふてくされる。
彼女がやりたいことは、大人にことごとく止められてしまう。

そしていままで「当たり前に出来ていたこと」をやらなくなり始めた。

私は次女に、ひとつだけ「自分がやるべき仕事」を与えていた。
幼稚園から帰ってきたら、幼稚園のカバンから自分の弁当箱を出して流しに下げるおしごとである。

身辺自立。自分のことは自分でやる能力。
その為に必要だと思ってやってもらっている。

3歳ぐらいから出来るようになり、つい先日までは、彼女はそれを自らノリノリでやっていた。
ものの数分で終わってしまう、簡単すぎるおしごと。

でも最近は「やりなさい」と言われると、次女はギロリと私を睨むようにすらなった。やってしまえば簡単なはずのことを、頑なにやらなくなった。

「やりたいこと」を止められるのに「やるべきこと」だけは押し付けられる。多分、次女が感じている不満はそこにある。

大人が思う「やるべきこと」をやらないとき、大人は怒る。
怒らないにしても「やりなさい」と言う。

私は私の意思でやることを決めたいんだと、次女は思っている気がする。
言われたからやるんじゃなく、やるべきだと思ったからやるんだと。

次女が勝手にやることは、多分、次女からすれば「やるべきこと」だと思ったことなのだ。

本当はそれを止めない方がいいんだと思う。

そして次女が「一緒に遊ぼう」と言ってくるとき、私も夫も疲れていたりすると遊びに付き合わない事が多々ある。

だって次女の遊びは永遠に続くのだ。
ひとつ終わっても、いつまでたっても発展し続けていて、途中でやめたらそれはそれで怒るし、そもそも何が楽しいのかもわからない。

正直、めんどくさいのだ。

つまり、大人は次女の言うことを聞かない。
なのに大人は、次女に言うことを聞かせようとする。

なんで弁当箱を流しに下げてくれないの、と私がたずねたとき、次女は答えた。

「めんどくさいから」

多分、この子は、とても賢い。

大人はめんどくさいという理由で自分の言うことを聞かない。
じゃあ私だって、めんどくさいから弁当箱を流しに下げない。

自分のお願いを聞いてくれない相手のお願いを聞く義理はない。

でも相手は大人対子どもの圧倒的な力の差で、自分を無理やり言う事聞かせ言う通りにしようとする。

理不尽である。

…わかる。

呪いの発動



おやつのゴミをその辺にぽいっとして、片付けないことを指摘すると、ぷいと次女はそっぽを向く。
少し語気を荒くすると、わぁっと泣いて怒る。

そして「私はひとりだ、家族の中にいるけどひとりぼっちだ」と言う。
泣いている子どもの絵を描いて、その横に笑っている大人二人と、子ども一人の絵を描く。

そして泣いている子の下に自分の名を書いて「きらい」と書く。

なんて切ない絵だろう。

でもそこで慰めに行ったり、ひとりじゃないよ、みんな一緒だよと声をかけると怒る。

何をどうしてほしいのかさっぱりわからない。
どうしたら一人ぼっちじゃないと感じて貰えるようになるのかわからない。

そんな日々が積み重なって、昨日ついに「死んだほうがいい」と言われるに至る。

私がかけた呪いは何だったか。と考える。

長女とは逆だ。

「やれないことを出来るようになりなさい」

ではなく

「やりたいことを我慢しなさい」の呪い。


解呪方法は?


これはどうやって解くんだ。

「あなたはあなたのままでいい」を認めることが長女のときにやったこと。
同じと言えば、同じなのかもしれない。

それは次女に「やりたいことを、やりたいようにやりなさい」と、言ってあげることだ。でも、次女に全て自由を認めてしまったら、とんでもないことをしそうな気がする。

でもそうやって思う時点で、私は我が子を信頼していないんだろうか。
何かとんでもないことしそうだから止めておこうと思うこと自体が、大人としてのエゴのようにも思える。

実際、包丁を勝手に持ったときも、カッターを勝手に使っていたときも、勝手に踏み台に登って高いところのものを取ったときも。
もっと小さな頃、勝手に一人で店の外に飛び出して駐車場の車に戻っていたときのことも。

大人が気付いて止めるまでに怪我も何もしなかった。
事故にもあわなかった。

多分、やれる自信があって、彼女はやっている。

本当は止めるべきではないのかもしれない。
でも止めないのは怖い。

ああ、ひとつだけ大きな事故はあった。
ちょっと気を抜いて、目を離したほんの数秒でそれは起こった。

2歳のころ、次女はスロープの手すりを登れると思って登ろうとした。
実際登れたのだけど、登りきったところで頭から落っこちたのだ。

顔がみるみる腫れ上がって、フランケンのような顔になった。
少しは危険に対して恐怖を感じるようになったかと思いきや、そんな大変なことがおこっても次女は止まらなかった。

やっぱり、危険を伴うことは止めることも大事だ。

でもあのときは2歳だった。
今はもう少し、自分をわかっているだろう。

そもそも「スロープの手すりに登る」という行為自体は成功したのだ。
彼女は登りきったのだ。登りきったあとに、落ちただけだ。

もしかしたら次女の中であれは成功体験なのかもしれない。

背中を無理やり押すことをやめる、それが長女にとって呪いを解く1番の方法だった。歩きたがらない子をムリに歩かせない。
最近はゆっくりだけど、自分の意思で歩くようになってきたように思う。

次女の場合は、走り出そうとする彼女を自由に走らせてやることが、多分、呪いを解く方法な気がする。

私は多分、次女に足かせをつけている。

いや、だって、自由にするって、めちゃくちゃ不安じゃん。

でも改めて思えば、長女の背中を押すことをやめることも、結局不安だったことを思い出す。

出来ないことを出来ないままにしておいて、本当に大丈夫なんだろうか。
大人になった時にこの子が困るんじゃないだろうか。
出来るようにしておいたほうがいいんじゃないだろうか。

でも、そうやって来るかわからない未来を案じて今の長女が苦しむなら、今この瞬間を笑っていられるようにしてあげるのがいい。
もし、今、本人が死ぬ事を選んで人生を断ち切ることがあったら、そもそもどんな未来すら来やしないのだ。
そうやって割り切った私は無理強いすることをやめた。

それは、端から見ると多分、むしろ子どもをダメにする育て方のようにも思う。出来ないことを出来ないままにして、放っておいている。

でもそれによって、毎晩泣いていた長女は、今、いつも笑っている。

コレで良かったんだ。と思う。

子どもを信じる勇気


結局、歩こうとしない我が子の背中を押すのも、走り出そうとする我が子を止めるのも、私が不安だからやることなのだ。

じゃあ、止めるのをやめるべきか。
これまた恐ろしい話だ。

また、我が子からの「死にたい」の呪い返しを受けながら考える日々が始まるのかと思うと憂鬱である。

「死にたい」なんて言うな、と止めることも、私が言われたくないから言う言葉である。自分の存在を消してなくしてしまいたいと思っている本人の気持ちなんて考えてやいない。

だから、大切なのは「その言葉を言うな」と止めることじゃない。

それを言葉にして言いたくなる理由を探して、それを言わなくて済むようにしてあげるようにすること。

今回の呪いもきっと解けるはずだと信じて、解き方を探して向き合うしか無いのだろうと思う。

動かなかった長女は止まる事を認めることで、背中を押すことをやめることで、自ら歩くことをはじめた。

走り続ける次女は、多分、自由に走らせることで、走り続けたら疲れることを知り、歩きたいときに歩いて、時に止まる方法を覚えていくのだろう。

いつも止められているうちはそれを覚えることはない。

とはいえ、それを許すことにも勇気がいる。

子育てって…難しい。

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