インサイド・ヘッドで感情を学ぶ
※ネタバレあります
次女が「インサイド・ヘッド2」が見たいとここ最近ずっと騒いでいた。
なんかYouTube広告とかオススメ動画でよく挟まるみたいですね。
しかし「インサイド・ヘッド」の1も見たことないし、口コミを見ると「2に関しては大人が見るほうが面白く、子どもにはわかんないかも」という反応が多かった。
とりあえずアマプラでレンタルして、1を一緒に見た。
インサイト・ヘッドは「心の中の感情」が主人公。
頭の中で感情がどういう行動を取るかで、その本体である人間の反応が変わるのがよくわかる。
1で出てくる感情は
ヨロコビ・イカリ・ムカムカ・ビビリ・カナシミ
一番最初、世界に生まれてきたとき同時に生まれてくるのが「ヨロコビ」である。成長と共に他の感情が生まれ、共に育つ。
私はこの『喜びが最初に生まれてくる』っていう考え方とっても好き。
1の中では、ヨロコビとカナシミが脳の司令室から飛び出してしまい、そのふたつの感情が抜け落ちた状態になる部分がある。
イカリとビビリとムカムカしかない状態。
さらにどんどん心が落ち込んでいくと、イカリもビビりもムカムカすら、どの感情の声も届かなくなっていく。
ああ、あるある、そういう状態、ある。って思った。
ヨロコビとカナシミは脳の司令室に戻ろうとするんだけど、何でもポジティブに捉えようとするヨロコビを、カナシミがことごとくネガティブに変換する。
カナシミは終始めんどくさい。
「わたし…こんな悪いことばかり考えてしまってごめんね…」といちいち泣き、やる気を無くし、ヨロコビはそれを何とか元気にさせようとする。
私はこの映画を見ている大半で「カナシミうぜぇ…置いていけばいいのに…」「だがヨロコビもポジティブすぎて疲れるな…」と思っていた。
ヨロコビの作り出した「嬉しかった想い出」にカナシミが触れるとカナシミの色に染まったりしてしまう。ヨロコビは必死で「カナシミは何もしなくていいの」と存在は否定せずともカナシミが何か行動しようとするのを防ぐ。
ちなみに何でこんな感情になったかというと、この感情の持ち主である主人公の「ライリー」は、親の都合による急な引っ越しで
・仲良しだった友達と離れる
・大好きだったホッケーが盛んな土地から離れてしまい、これからはやれないかもしれない
・お気に入りだった家が、ボロアパートに変わる
・新しい学校に上手くなじめない
など、環境の変化によって混乱しているのだった。
その混乱した心の中に「ヨロコビ」と「カナシミ」がいないというのはすごくよくわかる。
急に環境が変わって、いろんなことに不安を感じてしまうときって、常に何かに「ビビリ」になるし、いつもは仲良しの親や友達にも「イカリ」や「ムカムカ」が出てきてしまう。
その感情の底に「慣れ親しんだものから離れたカナシミ」があることには、なかなか気づかない。
心の司令室に戻ろうとする「ヨロコビ」は、ライリーに喜びの記憶が生まれるとき「カナシミ」を乗り越えた先に大きな喜びがあることに気づく。
悲しみがあるからこそ、喜びを感じられるのだと。
旅の中でずっと、悲しみは「大切な想い出」に触れてはいけないと言われてきたが、旅を終えて司令室に戻ったとき「ヨロコビ」は「カナシミ」にライリーの行動を促すように伝える。
カナシミが司令室で脳の司令を出すと、ライリーはずっと我慢していた悲しみの感情を親に吐き出す。
「いい子でいてくれてありがとう」ってパパとママも言うから、さみしいなんて言っちゃいけないと思ってた。でもやっぱり寂しいよ、と。
その感情を表に出すことによって、逆に心が安定する。
悲しかった、と家族に伝えるその記憶は「大切な悲しい記憶」としてライリーの心にきちんと刻まれる。
そうだ、人は「カナシミ」を閉じ込めがちだ。
ネガティブに考えても仕方ないと、悲しんでもしょうがないと、何とかポジティブに考えないと、と隠す。
それがときにイカリやビビリやムカムカに変換されて出てしまうけど、カナシミはカナシミとしてちゃんと必要で、こういう気持ちがあるよ、ということは表に出してあげなきゃいけない。
悲しむことは、たいせつなことだ。
すごく良く出来た映画だなぁ~、と感心した。
カナシミなんていらないじゃん!!と大半の場面で思わせておいて、ラストで、すべての感情の大切さに気づかせてくれる。
7歳の次女は私と一緒に泣いていた。
「悲しい気持ちになることって、だいじなんだね」と言っていた。
ちゃんとわかっていてすごいなぁと思った。
ちなみに10歳の長女は途中で飽きた。
合う合わないを選ぶ映画なのかもしれない…。
1の反応を見て、これなら2も行けるかなと思ったので次女と二人で観に行った。長女は全く興味を持たなかったので行っていない。
どちらかと言えばこれから思春期に突入する長女にこそ見て欲しかったのだが、長女の思春期はだいぶ遅れて来るような気がしている。
そう、2は「思春期」の心の変化を描いている。
思春期になると感情が複雑化して、その複雑になった心に振り回されて自分が自分でなくなったような行動をとったりしてしまう様子が描かれるとのこと。
この「複雑な感情」が、小さな子どもには多分まだわからないだろう、というのが口コミの意見だった。
さて、実際観に行ったあとの次女の感想はと言えば。
「キャラクターは可愛かったけどよくわからなかった」ということだった。
やっぱりねーーー
とはいえ思春期の揺れ動く感情を良く知っている大人の私は十分すぎるほど楽しめた。楽しむというか、何かこう、黒歴史的な心にちょいちょい触れられる感覚とでも言おうか。
本当は大好きなものを、そこにいる違う人が嫌いだと知ったときに「私も別にそんなの好きじゃない」と言ってみたり、仲良しな子に裏切られた気持ちになったときにその気持を伝えられずに冷たい態度で接してしまったり。
相手に好かれたくてアレコレ行動しているうちに空回りして、ハッと気づいたらすごく恥ずかしい思いをしたり。
なんかちょいちょい「あああああああああああ」ってなってた。
顔を両手で覆って床をゴロゴロしたい感じである。
さて、2で複雑化した感情がどう表現されているかというと。
1にいた5つの感情に加えて、他の感情が増えるのだ。
「シンパイ」「イイナ―」「ダリィ」「ハズカシ」
新キャラで特に強いのが「シンパイ」である。
『もしこういうことを言って、こうなったらどうしよう?』
『もしこうなったら困るから、こういうことをしとけばいいんじゃない?』
シンパイは常にそういう気持ちをライリーの心に芽吹かせる。
その不安が余計な行動を取らせ、空回りし…
「ハズカシ」が恥ずかしがる。
この一連の流れがもういちいち「ああ自分もこういうことやってたよぉおおおお」って恥ずかしくて恥ずかしくて。
この「シンパイ」が暴走する間、1のときにいた5つの感情がどうしているかというと、新しい感情たちによってまたしても司令室から5人揃って追い出されてしまうのだ。
そのためまたしても心には「ヨロコビ」が不在になる。
シンパイに振り回されてる間って、確かにヨロコビなんて感じることないよな。とまたしても妙に納得するのだった。
2の中で一番印象に残ったのは、とにかくひたすらポジティブでしかないヨロコビが、一瞬ネガティブになって「私だっていつでも明るくしていなきゃいけないのは疲れるのよ」と弱音を吐くシーンだった。
そうか、ヨロコビの中にもこういうものはあっていいのか、と妙に心に残った。そしていつも誰かに対するイカリを爆発させているイカリがヨロコビを慰めることにもぐっときた。
多分ここはそんなに見どころではないと思うんだけど、私は多分全編を通してここが一番印象に残っている。
5つの感情が不在の脳内では、ライリーは終始、シンパイや周りへの羨ましさ・イイナ―などの感情に振り回されておかしな行動を取るようになっていく。ああ、ほんとこんな感じだよね…って思う。
最初5つの感情で安定していたときの心は
「わたしはいい子」と自分を肯定する心の花のようなものが咲いていた。
でもその心の花をシンパイが捨ててしまう。
そして代わりにシンパイが沢山の思いを肥料として与えた結果咲くのは「私なんてぜんぜんだめ」という自己否定の花。
私はライリーの心にこんな花を咲かせたかったわけじゃない!とシンパイは同様してパニックになるのだけど、そんなところにヨロコビたちが戻ってくる。
そしてラストシーンでは「私はいい子」と自己肯定する心、「私なんて全然ダメ」と自己否定する心、そして「私は私がわからない」と混乱する心や、たくさんの心が入り混じり「それでも私は私」と不定形に形を変える花になる。
そしてその瞬間、ライリーの心は「ヨロコビ」を求め、ヨロコビが司令室の指令版に触れた瞬間世界が光に満ち溢れ優しい世界でライリーは笑えるようになるのだ。
小さい頃は色んな人に存在を肯定され「自分はいい子」と思えていたような子であっても、思春期になって多感になり、失敗や挫折や否定を経験する中で「私なんてダメだ」となる。
でもいい子な自分も、だめな子の自分も、ソレ以外のぐちゃぐちゃした感情の自分も…いいことも悪いことも全部を受け入れたときに本当の「ヨロコビ」が戻ってくる。
そのヨロコビを受け入れたときの世界は、とてもまばゆい。
本当に良く出来た映画だと思った。
物語のストーリーと、感情の変化と、感情たちの行動がストンと腑に落ちる。(1と2どちらが好き?と聞かれたら1ではあるが)
とはいえ、ライリーが思春期の段階で「ヨロコビ」を取り戻す感じ…これ、みんなそうなの?
思春期を越えて成長したときに、この世界に入って大人になるのが一般的な感情の成長なんだとしたら、ASDってかなり、かーなーり、思春期が遅れてやってきてロングスパンで継続するんじゃなかろうかと思ったのだ。
私、多分40過ぎてからなんですよ。この「どんな私も私は私」っていう心を受け入れて「ヨロコビ」が心に戻ってきて、なんだかキラキラした世界が見えるようになったのは。
それまではいろんなことをずっとシンパイし、誰かに嫌われないように取り繕って嘘をついては失敗し、恥ずかしい思いをし、うまくやってる人を羨んで、全てにやる気を無くして「私なんてぜんぜんだめ」って自己否定をひたすら重ねていた。
この映画の「思春期」の描写によれば私は、つい数年前まで思春期だった。そしてASDって私だけでなく結構この傾向が強いのではないかと思ったりもするのだ。過剰適応、自己認識からの自己否定。
しかも、私の感情の混乱とも言える思春期は、ものすごく遅れて来たように思う。
本当に空回りしてどうこう…みたいなのって20代中頃ぐらいから始まったんじゃないかな…。
中学生の頃なんて全然シンパイとかイイナ―なんてなかった。
世界には私しかいないみたいな感じで、誰かに嫌われるかもとかそんなことあまり深く考えてなかった。好きなように生きて、ちょっとしたいじめにあったけど、案外それに落ち込んだりもしていなかった。
高校生になってから誰かの輪にはいらなきゃとか、ここから追い出されないようにみんなと同じにしなきゃとか思って行動するようになったけど、それも本心というよりは何となくでそうしていた。
そうしなきゃめんどくさいし…というか。
なんか、あんまり感情くさい感情を持ってなかった気がする。楽しいとかムカつくみたいな根源的なものはあっても、複雑な感情があった気がしない。
なぜ自分は生きているのかとか、自分の価値について考えたりするようになったのって、やっぱ、結構大人になってからじゃないかなぁ…。
遅れて始まった思春期は長いこと、結婚して子ども産んで育て始めてもなお続いていた。40過ぎて、診断がついて、発達障害というものを学んだりしていく中で「自分は自分でいい」と納得して、そこから抜け出した感がある。(本当に抜け出せてるかは多分自分じゃわかんないけど)
どの感情も、自分を破滅させるためにいるわけじゃない。
映画の中でシンパイは余計なことばかりするけれど、でもそのシンパイは最後、ライリーがパニックになってしまったとき「ライリーのために頑張ったのに」と落ち込む。
どうしてあんなことしちゃったんだろう、何でこんなふうに考えてしまうんだろう…と自分を責め続けるかぎり、人は自分に生まれた感情の自己否定をしてしまう。
でもどの感情も自分のために動いている。どんな感情も本当は自分に必要で、それがあるから自分があるのだ。どんな感情も、大切なのだ。
今生きている大人の皆さんは、思春期をちゃんと通り抜けていますか。
実は、案外そのまま継続している大人も多いんじゃないのかな…なんてことをこの映画を見て、私は思ったりしたのです。
抜け出していない人にとっては、生きるヒントのようなものになる作品じゃないかなと思った。1も2も、とても大切なことを教えてくれる。
2は現在劇場公開中。
良かったら見てみてくださいね。
*****
余談ではあるけども、インサイトヘッド2のホームページで「脳内メーカー」という名前での性格診断が出来る。
いつもシンパイだから安全に過ごせるように慎重に行動するのが私。
それでうまくいって喜ぶ。
結構当たってる気がする。心配性なんだもん私。
なんかとりあえず大半喜んでる夫。心配が欠片もない。
たまに人を羨む。当たっている。
とはいえ別にすごい明るい人というわけでもないけども。
長女はいつも怒っているらしい😂
ほのぼののんびりしているので、ちょっと意外かなと思ったけど「怒りをエネルギーに変える」という点では確かにと思ったりもした。
小さい頃から癇癪持ちだし、結構ちょっとしたことで怒り出すところはある。
いやまじで次女これ。
いつもきらめいてるから。何かとにかくずっと楽しそうなんですよ。
生きる喜びに満ち溢れている。落ち込むこともあるんだけど、でも、なんかこう、ヨロコビ100%の人って結果に納得しかない。
これ、名前を入力するだけで簡易診断してくれるものなんだけど案外それなりにツボを抑えて当たってるからすごいなぁと思った。
実家の家族だったり、友達だったり、たくさん調べてみたんだけどどれも「なんかわかるかも」っていう結果ばっかり出てきたんです。
名前の音だけでそんなに当たるなんて、名前って大事なんだね。
ちなみにひらがなとカタカナ入力が出来るんだけど、何かおもての性格と裏の性格みたいな感じでだいたいどっちも納得出来る感じだった。
そんなわけで興味があったら自分の名前や家族の名前を調べてみてくださいね。
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