自律して考へる個人について


それでも上記のような『場の調和を乱さないうえでの自由』が私の自由の概念です。我ながら不思議ですね。

自律して考へることのできる個人こそが、わたしは、自由人だと思ってゐます。
そして、さういふ意味での自由人は、西洋人より日本人のはうが多いと思ってゐます。
西洋人は、わたしから見ると、きはめて付和雷同的。

規格通りの個人に、自らを嵌め込んでをり、まるで一人一人が針のやうに、同じところに穴が空いてゐて、そこに糸を通すと、次々と同じ言動を行ひ始める。
だから、何かといふと人が集まってデモをする。

日本人はあれを見て、自己主張してゐるといふが目がわるいのかと思ふ。
群れて同じ言葉を一斉に叫んでゐる人は、同調してゐる、とみるべきだと思ひます。

同調は決してわるいことではない。
むしろ、デモなんかではなく、普通の暮らし中で、叫んだり罵ったりすることもなく同調してゐる日本人は、西洋人たちより優れた民族だと(言ったらレイシストなので言はないが)言ひさうになってしまひます。

自由、個人、自律などと呼ばれるものは、西洋だけでなく、日本にもあって、そのことを言葉で説明するには、なかなか骨が折れる。
といふのがわたしが今思ってゐることです。

戦後の日本でベストセラーになった『菊と刀』が、今のわたしたちが、
自律した個人
について考へるとき、知らないうちにハマってゐる参照枠(フレーム・オブ・レファレンス)となってゐる感じが、わたしにはしてゐます。

『菊と刀』によれば、日本人とはかういふ民族です。
(以下は、引用ではなくわたしの要約です)

日本は「恥の文化」であり、同調主義的で、他者の目から見て恥ずかしいことはしないといふ、(キリスト教の「罪の文化」と比べると)きはめて他律的で低級な道徳の下に人々が暮らしてゐる。
日本人はまだ個人として生きてをらず、扇動されると侵略戦争にも反対できない群れでしかない。

これからちょっと、『菊と刀』と、その影響について調べてみたいと思ってゐます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?