原恩と世間

 「原恩」という言葉は、万葉学者・民俗学者の上野誠氏の本にあった。
 素晴らしい言葉だと、わたしは、思った。

 西洋人の人間観では、人は生まれながらに原罪を背負っている。
 神を裏切った男女の性行為の結果として生まれた肉である自分には、罪がある。mortalな肉である存在自体が断罪されているのだから、まだ何もしていない自分には責任が無いと抗弁しても無駄だ。

 日本人の場合、罪ではなく「原恩」とでもいうべきものを感じている。感じる相手は、世の中、つまり、世間だ。
 だからこそ、日本人にとって、世間はうざったいのである。個人で生きることをはばむのだ。

 原恩なんかあるのかと思う人は、こんなふうに考えてほしい。

 野山の道を歩く。これを作ったのはわたしではない。ずいぶんと昔から何人もの人が往復し続けたことで、道になっている。ニ三年も人通りが絶えると、山間の道は草木に埋もれてしまう。

 店に立ち寄って食事をする。店が誰かによって営まれ、食糧が多くの人の手を経て送られてきているので、食事ができる。
 トイレに行きたくなったから、トイレに行く。それを作ったのはわたしではないし、下水道を掘ったのもわたしではない。
 どうやら、わたしは何もしていないのに、無数の人が働いた結果を享受して生きているようだ。
 他人がいてはじめて、わたしは、「わたしが」と言って生きられるというのは、哲学的な意味ではなくて、日々の生活の事実だ。

 こう考えてみると、生まれて来た瞬間から恩があるような気がする。それも特定の誰にというのではない。世の中に恩がある。そういうときにぴったりくるのが、「世間」という呼び方だ。
 恩という概念を共有できる人がいなければ、世間という共同幻想も成り立たないだろう。
 今のところ、日本には、世間があると思う。

 若い人の前半人生は、世間に対する恩返しに使えばいいのだと武田邦彦氏が言っていた。
 武田邦彦!
 なるべくあんな(と言っては失礼だが)人の本など読んだことがないことにしたいのに、あの人はトンデモ科学に織り交ぜて、わたしのようなネトウヨの琴線に触れることを、たまに言うので困る。

 武田先生は、自分のしたいことをするのは、恩返しとして働いてからでいいとおっしゃる。若いうちは、自分はほんとうは何をしたいのかなどと考えるより、先ずは、できることをやればいいとおっしゃるのだ。
 わたしは先生の説に大賛成だ。
 少なくとも、こういう考え方も、子供たちには知らせるべきだ。

 というのは、今の世の中では、若い人や子供たちは「夢を持て」と脅迫されているように、わたしには、見えるからだ。

 生きるとは、夢を持ち、夢を失わず、夢を追い続けること。
 そんな無茶な。

 いつから、そんなことになったのだろうか?

 それよりは、四十くらいまでは、世の中からもらった恩を返すために働いたらいいと考えた方が楽だ。

 非凡な才能を持って生まれた人は、本人がそうしたくないと思っても、才能が開花してゆく。そういう人は、はたから見ると、「自分の夢をしっかり持っていて、それに向かって邁進している」ように見えるかもしれない。
 けれども、それは誤解だ。
 本人が夢だとかなんだとか思う前に、才能がある人は、その才能を発揮してしまう。そして、それにふさわしい仕事に就いてしまうのだ。
 青虫が蝶になるのは、夢を抱いて努力したからではない。

 子供のときに、人間なら夢を持つのが当たり前という空気の中で育つのは、平均以上の才覚や才能を持たずに生まれた人には、とても生きづらい環境だと思う。
 One of themである人は、学校にいくのがいやになる、ひきこもりたくなる。わたしもそうだった。いよいよ夢の実現に向かって走り出す、そういう人生が始まるのを、先延ばしにしたくなるのは、もっともだ。
 
 競争じゃないんだ、自分だけの夢でいいと学校の先生などは言う。それが人間にとって一番難しいのを、学校の先生は、人生を実際に生きているのに、わからないのだろうか?
 自分だけの夢などと言い出したら、もう、一生、自分探しで終わる。

 世間の負の面は、いまさら言わないでも、たくさんの本が出ている。阿部譲也氏の『「世間」とは何か』は、現代の古典といえるかもしれない。

 わたしは、世間の正の面を、この夢を持たないやつはだめだの時代に、強調したい。
 世間があるから、「恩を返すために働く」と考えることもできる。

 世間が無ければ、自分の好きなように生きていいのである。
 世間が無ければ、人間は、個人であり、人権を主張し自由を求める市民である。
 裏返しに言えば、自分が何が好きで、どうしたら、ワクワクしながら働けるかを必死で探さなければならなくなる。

 夢を持って夢に向かって生きるというのは、誰にでもできることではない。世間への恩返しとして働くことは、誰でもできる。

 世間への恩返しとは、今風に言えば「共同体に貢献しているという感覚」である。
 それは、道に落ちていて誰も拾おうとしないゴミを、自分が敢えて拾うだけでも感じることができる。
 ただ、こんなクソみたいな社会はうんざりだと思ってゴミを拾ったりすると、惨めな気持ちがして首でもくくりたくなるだろう。そういう世間とつながりを失くした人(失くしたい人)には、恩返しではなく、ボランティア活動のほうをお勧めする。西洋人もやっている、キリスト教のcharityに由来する、あれである。

 日本には、世間がある。
 世間があると便利である。(不便な面については、noteの記事にもあふれかえっているので、わたしは触れない)
 なぜなら、どんなに平凡な人でも、なんの才能も無い人でも、誰よりも仕事ができない人でも、バカでも、お人よしでも、世間への恩返しとしての労働はできるからだ。


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