映画『オースティン・パワーズ2』

 わたしは、下ネタが嫌ひです。
 排泄とセックスに関する話を出すと人が笑ふのは、当惑するからです。
 漫才でも落語でも、お客さんがシーンとして、才能の無い芸人はそれに耐へられなくなると、決まって下ネタを出します。

 排泄とセックスは、人間の身体性の象徴です。
 動物とはまったく違ふ存在、「私たちは人間だ」といふ擬制をあっさりと倒壊させる。
 
 家族の団欒、おばあさんも子供もいるときに、予期せずいきなりテレビに、裸の男女がベッドに横たはるシーンが出て来たら、急いでチャンネルを変へるのもなにかわざとらしくて手間取ったまま、怒るわけにも泣くわけにもいかず、しばらくの間、わたしたちは笑ひたくもないのに、笑ふしかない。
 そのやうな笑ひの強制は、人が神聖と呼ぶものをないがしろにしてをり、人間性に対する顧慮に欠けてゐて、或る意味、暴力的です。

 けれども、映画『オースティン・パワーズ』の下ネタは、ちょっと印象が違ひます。


 英語には、性器の異称がわんさかあるんですね。WillyとかJohnsonとか男性の名前はかたっぱしから「ムスコ」って感じになってしまふらしい。
 お米の文化の国・日本ではお握りやおこわやおかゆやら、お米の異称がたくさんあるやうに。
 英語話者は、セックスの文化の国に暮らしてをり、伝統的に性依存症になってゐる証拠だとネトウヨとしては思ってゐます。

 この映画の冒頭は、主人公のオースティン・パワーズが全裸でホテルの建物を練り歩くシーンになってゐます。
 仰々しくカールする胸毛などの「付け体毛」は何を意味してゐるかと考へてみると、この主人公は、丸裸になって大人の間を走り回る子供だと思ひました。
 あれは、子供です。
 しかも、主人公の身体はびっくりするくらゐ非官能的。肌襦袢とかお相撲さんの着ぐるみみたいです。
 男の子が裸で走り回ってゐても、女性は、大人の露出狂と出会ったときのやうな嫌悪や危険を感じない。ちょっと呆れたり笑ったりしてゐる。

 男の子なら誰でも(無意識には)感じてゐる・自分の身体の突起に対する・なにかちょっと得体の知れない不気味さを、大人の笑ひを誘ひだすことで、解消してしまはうとする。

 このオープニングシーンのオースティン・パワーズは、はっきりした意味もわからず、
「おかあさん、セックスしてるんやろ?」
と得意気に語って、怖い母親に張り倒されて鼻血を出したりする・わんぱく小僧のやうです。

 オースティン・パワーズのバディ、シャグウェル(ひどい名前やね)といふヒロインも、マリリンモンローを連想させる・可憐なたたずまひを見せます。
 何をしてもいやらしくない。
 だから、胸を全開にしても、その肉体の中にある少女性を隠せません。

 ガードマンは、ヒロインの胸を見て
「あかあちゃーん」
と叫んで飛びつきます。

 I think he was HOT for you. あいつ、君に無我夢中になっちまったね。
 That's enough.        もういいったら。

 わたしには、ガードマンの気持ち、よく、わかります。

 セックスではなく、母と共にゐた安らぎ、なんの心配もなかったあの時、その失われた時を、笑ふと幼い少女のような表情になるシャグウェルの乳房に見出して、ガードマンはマグマの中に飛び込んでしまひました。

 少女性。
 永遠の少女。
 これは、女性から女の要素を抜き去って、母性と限りなく近いものにした・抽象概念です。
 母性とどう区別するのか?

 わたしも、それを見たら、死などなにほどのこともなくなるに違ひない。

 フェリシティー・シャグウェル。
 フェリスと言へば、幸せ。女子高の名前にもあるらしい。

 永遠のわんぱく小僧として、この世界の現実から逃れた「笑ひの世界」の中で動き回る・オースティン・パワーズの伴侶に相応しいと思ひます。



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