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生穂今昔雑記③

淡路島のダンジリの歴史

生穂のダンジリ祭を詳しく見ていく前に、淡路島のダンジリの歴史を見ていきたい。以下は、小生が勉強会用に纏めたものから抜粋する。


淡路島では「淡路四草」と称される〇〇草という江戸時代に書かれた4つの郷土誌がある。
これらの記載から淡路島の祭・ダンジリについて記していく。

元禄三年(1690)、洲本の舟長(ふなおさ)與次郎が九州で購入し、
洲本八幡神社に奉納した。

購入者の名前は他にも「与次郎」「庄次郎」「興次郎」といくつかの説があるが、小生は「與次郎(よじろう)」を取っている。
「与次郎(よじろう)」と「興次郎(こうじろう又はきょうじろう)」の記載から、“興”に似た字で“よ”と読める“與”だったのではないかと考えている。
また、購入先は九州と表記したが、
『味地草』では「日向國」、『堅磐草』では「大隅國」となっている。
場所については、決め手となる根拠がないため判断できず、小生は現在のところ「九州」としている。

余談だが昭和60年頃、佐賀県の研究者が旧津名町役場を訪ね、諏訪神社(諏訪明神)の「コッコデショ」との関係を調査したようであるが、調査結果は未だ確認できていない。「コッコデショ」とは諏訪神社の秋季例大祭「長崎おくんち」内での4年に1度の(5段の)布団ダンジリ奉納を指す。
(デイリーポータルZ 特集 長崎人が激しく熱狂する「コッコデショ」とは?https://dailyportalz.jp/kiji/111021149087

では、その購入してきたものとはどういうものだったのか。
『味地草』には挿絵も掲載されており、現在の「曳きダンジリ」と呼ばれる「岸和田」のような型で描かれている。妻壁(正面)に華の彫物が見える。現在のように獅子噛や懸魚ではない。ダンジリの中で舞っている様子なども描かれているが、著作権関係で画像を載せられないのでご自身で確かめて欲しい。
近代に発行された複写本は、島内のどこの図書館にも置いているはずである。文章では、

昔は柱を茜巻きにした一重棟だったが、宝暦四年(1755)に二重棟にした(一丁目・下水樋街)(筆者意訳)

「茜巻き」とは、柱に赤布を巻きつけることで、挿絵でも確認できる。
挿絵には一重棟のものと二重棟のものが描かれており、変換されていく期間中に描かれたと思われる。

呼び名については、「野台」が多いが、『堅磐草』では一箇所だけ「ダンジリ」とフリガナがある。その他「曳く野台」「舁野台」「舟」「大車楽」「舞車楽」「壇地車」などの表記があるが、全てが同一物の呼称とは考えにくい。
記載された時代には数種類あったのではなかろうか。

●現在の洲本八幡神社のダンジリ(馬場町)

洲本八幡


津名(上郡)

津名のほうに目を向けると、某書に

元禄八年(1695)祭礼に多賀村と北山村が檀尻を奉納したのが最初である。
それは重層唐破風型だった。翌九年には郡家浦濱から曳舟檀尻が奉納された。三番叟と舞は昨年、播州三木の紺屋から習い覚えた。(筆者訳)

とある。
この書籍には引用元は掲載されていなかったが、この出典は『一宮御祭礼之儀お尋ニ付申上ル控』だと思われる。
年代から考察すると、元禄八年(1695)というのは、宝暦四年(1755)に“二重棟”になった洲本八幡神社より古く、伊弉諾神社(神宮)には別系統で伝わったと考えられる。
伊弉諾神宮の『例祭書』の帳面には出ていた各村の邌物明細が書かれており、最初のものは元禄六年となっているようである。
その邌物は、賀茂神社『本社砂持実況』絵馬(詳細別記)のようなものだったと考えられ、それが元禄八年の重層唐破風型になったとも考えられる。

●賀茂神社『本社砂持実況』絵馬の邌物

砂持4

高砂や赤穂には有名な船祭りがある。また淡路島西浦(西海岸)では往昔から播州方面と交流があり、三番叟や舞などと共に伝わった可能性もある。
このあたりは小生も追調査が必要だと考えている。

④に続く

ヘッダー画像:引用元『長崎土産』

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