雑記1

下記の記事を読んで衝撃を受けた。

確かに自分が書いた記事は、読んでほしい。一方で他人の記事をちゃんと読んでいるかと言われると読んでいない人がほとんどではないか?考えてみるとニュースなども数値と結果のみを拾っている気がする。

また文中で言及されている「人はWebページの20%程度のテキストしか読まない」というデータも驚いた。何が20%までを読ませる要因なのかはわからないけれど、なんとなくパレードの法則(全体の数値の大部分は、全体を構成するうちの一部の要素が生み出しているという理論)を思い出した。

そう考えると、ある文章の重要な要素は全体の2割に凝縮されて8割はおまけということになるのか。それとも、その8割は理解されえないけれども2割を記述するための重要な「何か」になっているのだろうか?

なぜ切り取り、削られる側に着目しているかというと、最近日々の生活の中で、ある瞬間の感情や考え、感覚、その空間にいるからあふれ出てくるものを記述・記録することは、実は重要なのではないかと思うときがあった。

おそらくその時感じたことは、今後一生感じないかもしれないし、考えが浮かばないかもしれない。その時、その場所で、その時の自分しか感じることができない物事。

雨上がりの道路のにおい、湿度から解放された空気、雲間からあふれ出る光、車の助手席で頬杖をつく姿。穏やかな風と目的地に向かう高揚感。フィルムを重ね合わせて、感情が描き出されていくような感覚。

その時の感覚や感情に当てる言葉が存在しないから、共有されないし、できないのではと考えている。でも一番近いのは感動という言葉なのかもしれない。その濃度や色や手触りが人それぞれ違うのかもしれないけれど。

個人的には子供の時に感動した時の感覚がまだ身体のどこかに残っていて、それにまた出会えないかと考えているけれど、どうしても会い方がわからないでいる。他人に聞いても、やはり感動は人それぞれ違うから、それぞれの会い方を考えるしかない。

懐かしい誰かに会いに行きたいのに、何を乗り継げば、どこに行けばよいのかわからない感覚。ただどこかにそれがあるという確信。この感覚は20%伝わるだろうか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?