ルサンチマンと信仰心

ルサンチマンとは、弱者の抱く強者に対する憎悪、妬みであるとのこと。

✹ニーチェ(19c独の哲学者)の用いた言葉。出典:Weblio辞書

今日読んだ記事で、ルサンチマンの暴走は、神仏などの超常的な存在への信仰の薄れと関係しているのではないかという話を目にしました。

※先に記しておきますが、記事を批判したいという意図はありません。念のため。

信仰心は薄れている?

気になったことの一つは、信仰の薄れについてです。個人的には「信仰の薄れ」というより「宗教色の薄れ」というか、自分が宗教に基づく行動、習慣をしている意識が薄れているのではないかなーと思います。平たい表現をしてしまえば、カジュアルになったのではないかなと。

例の一つとして、私のまわりでは御朱印集めをしているという同世代(現在アラサー)が数年前から当たり前のようにいます。観光で大仏を見てきた!寺院、神社をお参りしてきた!といったエピソードも一般的だし、葬儀があれば宗派ごとのやり方に従って行います。

こういった行動について、それが信仰心とはたしかに言い難い場合が多いですが、”拝む”という気持ちは当たり前に湧いているように思います。

一方で説明のつきづらいことを神仏の超常的な力としてアンタッチャブルにしてしまう姿勢は薄らいでいるのは確かだと思います。不思議なことを不思議なままでは納得いかない人が増えたとでも言いますか…

ちなみに私は小学生の頃から学校の怪談系統の本ばかり読み漁り、読み尽くしたところで妖怪系の本にシフトするくらいには不思議好きな人間です。数年前に自律神経がやられてしまい不眠状態が長く続いていたのですがひたすらオカルト話を読み漁り、見事不眠が悪化しました。でも、夏の静かな雨の夜に読むオカルトは最高です。規則的にも不規則にも聞こえる雨音が、不気味さを引き立てるのです。

こうした超常的なものに浸りたがりな私ですが、それもまた信仰心がある、とは等号ではないですよね。

ルサンチマンと世の荒廃

少しこちらの話題にも触れる必要がありました。正直たまに読み物にでてきては「誰やねん」と軽くツッコミをしてみるくらいにしていたのですが、要は持たざる者の嫉妬といった感じでしょうか。例えば私のようなセクシャルマイノリティが「異性は結婚できるのに同性婚ができないなんてズルい!」と嫉妬するような感じで合っていますかね?権利を持たざる者の嫉妬。

現代の歪んだルサンチマンについて記事では語られています。自分にはないものを妬み、それを正論と信じて主張する。んー、これは簡単には否定することのできないものに思えます。一方で、ただ現状に甘んじて主張するだけでは自分はいつまで経っても本当の意味では何も得られないので、声の大きい人が得をする世の中では、いつまでも持たざる弱者風の人が増殖し、荒廃していくばかりではないかなとも思います。

煩悩の飼い方

ひとの持ち物が羨ましい、自分にもよこせ、と。再現なく湧きいつまでも満足できなさそうなそれを仏教では煩悩と呼ぶのですよね。じゃあ煩悩を払い、断ち切って生きるしかないのか。これもまた難易度が高く、かえっていつまで経っても幸福を感じる暇がないようにも想像できます。

煩悩が何人にも湧く普遍のものだからこそ、仏教の教えがここまで続いているのだと思います。そこで、普遍的に皆にあるものならば私としては煩悩は飼いならしてこそではないかと提案してみます。

今自分が煩悩に飲み込まれそうになっているとします。
「パートナーがいるやつが憎い、高給取りが憎い、正規雇用が憎い、都会暮らしが憎い、標準体型が憎い…」すごい、無限に湧き出そうです。そしてどちらかというとこれはルサンチマンでしょうか?ともかく、そこでその欲求・嫉妬の解消を例えば先延ばしにしたり、例えば別の行動への熱に昇華させたりします。心理学的に言う、いわゆる防衛機制ですね。「今度東京に行ったら〇〇したろ!」「田舎でだって楽しいことはいろいろあるし!」といった調子でしょうか。ある一面からは弱者に見えていたはずが、いつの間にか自分の持っているものにも目を向けることになりました。手を焼いていた煩悩も、楽しみへのスパイスとなったわけですね。実に健全。

宗教への信仰心と死生感

とはいえ私自身はすごく悲観的な面もあるし、自分に対しての否定的な感情も強く渦巻いています。いつだって健全でいられるわけではないのです…。

そうであるが故、仏教でいうところの死後の世界。これを肯定することに最近抵抗を感じるようになってきました。

付き合いの長い友人が、「精神的に限界がきている気がする。急に消えたらそういうことだと思ってね」などと宣ったり。一番面倒をみてくれたばあちゃんが、急に容体が悪くなりお別れがきたり。
死んでしまったら、もう会えない。あの世で元気でな~とか、あの世では救われる~とか、やっぱり簡単に受け入れてはいけない気がするのです。もっと今にこだわらなくてはいけないのではないかと。無力だったとか、できることはやったとか、自分の後悔や哀しみから目を逸らしてはいけないのではないかと。

ますますうちの宗派の教えには背いてしまっているのかもしれません。でも、亡くなったばあちゃんのために泣いてくれる近所のばあちゃんがいて、その涙が本当に胸にささりました。しみじみでなく、「なんでだ!早い!」と言って泣いてくれる。いくつになっても自分のために泣いてくれる友だちがいるような生き方をばあちゃんはしたのです。

ちょっと熱く、長くなってしまいました。
信仰について、我が家の宗派の考えや歴史は私は気に入っています。でも、自分のためにそれを踏まえて自分が何を信じたいのか、もまた私には生きるためには重要だなとも思います。

自分を否定する心が渦巻いてどうしようもない時にはこちらがオススメです。
Four seasons /THE YELLOW MONKEY
https://open.spotify.com/track/5J0zCupAtMvzGEORBfkzwV?si=hMplGQLjRXe3EIXJLTHGzA

生きる理由になる一曲です。

なんだかまとまりがつかない締めくくりになってしまったかな。

最後まで読んでくれてどうもありがとう。

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