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神様のビオトープ


私は本を読んだり映画を見たりすることが好きで、感想を書くことは苦手だ。自分の見聞きしたものを感じたまま残すことや発信することは好きだけれど、これから見聞きする見知らぬ誰かにとってそれが邪魔になることもあると思っているから。それでも、せっかく登録したnoteに何も綴らないままでいるのももったいないので独りごちてみようと思う。

私の感想は物語の詳細を語らないし、賞賛でも批判でもないただの感想で何の役にも立たない瑣末なものです。


凪良ゆうさんの 神様のビオトープ を読んだ。
ビオトープとは生物空間、転じて生物が住みやすいように環境を改変することを指すこともある。

彼女の作品を読むのは初めてだったけれど、なんだか懐かしい感じがした。言葉を追えば追うほど、ページが進めば進むほど、ずっとここにいたいという気持ちが大きくなっていく。でも、ずっとここにいることは出来ない。

夏の終わりの夕暮れに、ひとりぼんやりと窓辺に座って愛する何かの亡骸を抱えているような気持ちになる。薄青色の空気と死臭に塗れて、ずっとこのまま自分と何かのふたつだけでいたい、あの気持ちになる。


主人公の 鹿野うる波 は、事故死した夫 鹿野くん の幽霊と一緒に暮らしている。
物語の冒頭から鹿野くんは死んでいて、うる波は未亡人だ。二人の生い立ちや出会いが事細かに語られることはなく、常に一定の余白を残したまま物語は進んでいく。この本の中には鹿野くんの名前も記されていないし、うる波が共に暮らしている鹿野くんが幽霊なのかそれ以外の何かなのかを結論づけることも無い。何かを強要されることもない。こうあるべきだとか、これが正しいとか、これが悪いとか。そういった決めつけもない。

ただ、散りばめられた言葉を集めて、何かを心底愛することの意味を噛み締めて、風景を繋げていく。

愛することに制限も条件もない。
心で愛することは自由でいい。

子供の頃に確かに見えていたものたち。
それらは空想ではなく確かにそこにいた。
街を歩くとふとした時に聴こえる声。
それらは幻聴ではなく確かに私を呼んだ。
悲しみの底にいる時何かに手を引かれる感覚。
それらは妄想ではなく確かに私に触れた。

あの時の彼らは、声は、体温は確かにそこにあったんだ。

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