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必ずしも意義は必要ない。楽しければ、それでいい。

youtube『ロザンの楽屋』が好きで、時折見ています。

さきほど見ていたものがこれ。
サムネイルそのままなんですが、部活や勉強をやるにあたって、『意義』って言い過ぎなんじゃないの?というお話でした。

そう言われたら、そうやなーって。強いメンタルが育つ、上下関係が学べる、などなど。部活の意義って、いろいろ言われるけど、実際のところ、そういうのん全部あとづけやんね。

強いメンタルを育てようって思いながら、サッカーボールは蹴らないし。上下関係を学ぶために、サックスは吹かない。楽しいからやる、やりたくなるんだよね。そこがもう大前提だよね。


かくいう私も、娘が中学に入学した当初、運動部か文化部で悩んでいるときに、運動部をすすめました。「運動部の方が集中力がつくよー!」「集中力がついたら、受験のときに役立つよー!」って。

単に、健康のため、からだを動かしてほしいなという思いだったんですが、明らかに、意義の押し売りでした。受験のために、部活をやるわけじゃないのに。あとから、反省しました。
(結局、娘は運動部に入り、自分自身でスポーツの楽しさを見出して、引退までがんばったので、結果オーライにはなりました)


こうして、すぐに意義を考えてしまうのって、どうなんだろうね?意義を求められて育ってきたから、大人になっても、なかなかその癖が抜けないんよね。別に絶対悪というわけではないんだけど。

だけどさ、大人だって、楽しいをいちばんに考えたっていいんじゃないかな。noteを書くことも、そう。私、プロフィール欄に「書くことで人生を楽しくしたい」って、エラソウに書いてるけど、人生うんぬんじゃなく、「楽しいから書く!おもしろいから書く!」だけでも、いいんだもんね。


「書くことで社会の役に立ちたい」とか、「同じような境遇の人を励ましたい」とか。何らかの意義を持たせることは、決して悪くはないんやけど。

ただ、それが前面に出すぎちゃうと、「こんな話、誰の役にも立たない…」「こんなこと書いたって、誰もおもしろくない…」って、勝手な自分の思い込みで、蓋をしてしまう


私は何のために書いてるんだろう?書くことで、どうなりたいんだろう?って、よく考えるんです。きっと、必死で意義を探してるんだと思う。でも、結局、よくわからなくて、何を書いたらいいのか、見失ってしまう。

必ずしも意義なんて、必要ない。

自分が楽しけりゃ、それでいい。


そんなもんなのかも。脳より心。あれこれ頭で考えるより、衝動にまかせて行動しちゃったほうが、案外うまくいくし、長続きするのかもしれないなー。

書いてるときはわかんなくても、きっと、意義なんて、あとから出てくるから。この世に無意味なことなんて、ないはずだから。


そんなことを思いながら、今日のnoteを書きました。

「書くことは考えること」って、いつも言ってますが、ちょっと考えすぎなのかもしれないな。もう少し、感覚的な文章を書いてみたい。

ではでは、またー!

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