オープンレターに見るキャンセルカルチャーの未来
【変更履歴】(2022/1/23以降で「追記」ではなく本文を変更したもの)
2022/1/23 アゴラ編集部を批判した文章を一部変更しました。(アゴラ編集部が問題となった誤情報の拡散について謝罪・訂正されたため。)
2022/4/5 オープンレターが削除されたため、それに合わせて変更。また本文を整理。なお、アーカイブは現時点では残っているようです。
今回のテーマは、Twitterネット論壇を大騒動にしていて、「自主規制」の嵐が吹き荒れている「女性差別文化に反対するオープンレターに関する問題」について――なんだけど。
なんだけど。
私としては、「オープンレターの中心」と名指しされている小宮友根・東北学院大学准教授に的を絞るわ。
したがって、以下、小宮友根准教授のことは「オープンレターの中心人物」として取り扱うわ。もし、小宮さんがご自身で、そうではないと思う場合、お手数で申し訳ないけれど「それは間違いだ」と私に指摘してね。連絡先はこちら。
その時は、ゆっくりしないですぐに「間違いでした」という文言を追記するわ。指摘内容によっては記事の削除も検討するわよ。
さて。本論に入る前に、さすがにオープンレター問題の概略くらいは説明させて頂くわね。
他の記事やTwitterなんかで「既に知ってるよ!」って人はさらに次の小見出しまで飛ばすのだわ。
オープンレター問題とは?
まずは2021年3月。
国際日本文化研究センターに所属する呉座勇一氏は、自身の思想から、Twitterで繰り返しフェミニスト等を批判するツイートをしていたわ。
けれど、ある日に自ら投稿内容の一部が不適切だったと認め、当時担当していたNHK大河ドラマの時代考証役から降板したいと申し出たわ。
……まあ、会社員なら察しが付くと思うのだけど、「自己都合退職願いを書かされる」的な事象ね。うん……。世の中には色々あるのだわ。
そして、このニュースが出た翌日、国際日本文化研究センターから「呉座勇一氏を厳重注意した」という旨の声明が発表されたわ。
ここの時系列は、たぶん、誰かさん(クレーム元)→NHK→日文研→呉座勇一氏って流れのような気もするけれど――これはただの憶測ね。
ちなみに、日文研の声明ではけっこうキツい表現が使われていて、『研究者として到底容認されない発言を繰り返していた』とまで書かれているのだわ。
まあ、私が個人的に確認した限りの呉座氏のツイートに関しては、べつに個人の思想信条の範囲だと思ったけど。まあ、私の感想だから、もちろん皆さんには皆さんなりの思いがあるでしょう。
そして、翌月になってすぐの2021年4月4日、ついに『オープンレター』と呼ばれているものが発表されたわ。
※2022年4月4日で削除されました。アーカイブはこちら。
当該オープンレターの非難対象は、あくまでも「女性差別的な文化」全体であって、呉座勇一氏の発言に関しては「ひとつの事例に過ぎない」という扱いね。
思うところは当然あるけど、一応、文章はそう構成されていると認めましょう。
中心人物は、先ほどの情報から、小宮友根准教授。
【注意】
当該オープンレターの署名は1300人分集まったそうだけど、あまりにも管理がザルすぎて「適当な名前と肩書」を入力してもそのまま反映されてしまう仕組みだったわ。これは現在(2022年1月)でも再び問題視されていて、「署名参加した覚えがないのに、自分の名前が掲載されている」という複数の声があがっているわ。
そして、ここがめっちゃ重要なんだけど、2021年7月に呉座さんと相手さんとの和解が成立しているわ。
この前後関係を間違えて、「和解が成立した後で、オープンレターが出された」と誤認している人が結構見受けられるから気をつけてね。
これアゴラの記事すら間違えてて。アゴラが間違えてるせいで他の人も間違えてるんでしょうね。
アゴラ編集部さんはこんな風に書いてるわ。
【2022/1/22 追記】
下記の引用部分につきまして、アゴラ編集部は、22日に『【訂正】最初のバージョンで、呉座氏と北村氏の和解について事実誤認がありました。その記述を削除しておわびします。』と修正されたようです。(以下は21日時点での引用となっております。)
北村紗衣氏が、呉座雄一氏のツイッターの鍵アカウント(一部の人しか見られないアカウント)で批判されたことで、訴訟を起こすと呉座さんに通告しました。しかし、名誉毀損に該当しないので、弁護士を入れて和解していました。その後、北村氏自身が発起人になって、呉座氏を学界から追放しろという「オープンレター」を出していました。
これは和解違反であり、法律的にも非常に大きな問題を含んでいます。
呉座勇一氏のオープンレター問題再炎上: お粗末なこの問題、悪しきキャンセルカルチャーを許すな(visited 2022/1/21)
※強調は原文に従った。
この順序を間違えるのヤバイでしょ……。
だから他人の発言は裏取りしないと信用できないのだわ。
本件に関しては、「アゴラ編集部」が悪いと言っておくわね。『法律的にも非常に大きな問題を含んでいます』と書いているけれど、そこには無いわ。
話を戻すと。
さらにその後の2021年9月13日、日文研は呉座さんの処分を発表。停職1ヵ月としたわ。
しかし、それより手前の8月にも別の処分が下されていたことが呉座さんが起こした訴訟から明らかに。
訴状によると、呉座氏は2016年、任期付きの教員として採用され、今年10月から任期のない定年制の資格を与えて助教から准教授に昇格する決定を1月12日付で受けた。しかし、公開範囲を限定した個人のツイッターアカウントで、特定の女性研究者をおとしめるような投稿を長期にわたって続けていたことが3月に発覚。この問題などを理由に8月、再審査の結果として資格の付与を取り消す通知を受けた。
呉座氏側は、資格の付与は正社員としての採用決定に相当し、取り消しは実質的な解雇に当たると主張。SNS上での不適切発言は懲戒解雇の理由としては程度が軽いなどとして、解雇権の乱用だと主張する。
この問題を巡って呉座氏は9月に同機構から停職1カ月の懲戒処分を受けたが、懲戒処分の標準例に照らして著しく重いとして、同機構に処分の無効確認を求める訴えも京都地裁に起こしている。
京都新聞『呉座勇一氏の地位確認訴訟 日文研側は請求棄却求める、京都地裁で初弁論 2021年11月25日 15:06』(visited 2022/1/21)
※強調は引用者による。
SNSでの不適切発言で社会的地位ロストはやり過ぎよね。呉座さんが行っている2つの訴訟に関しては、私は完全に呉座さんを応援するのだわ。
ただ、この時点ではオープンレター問題は、そもそも和解成立している以上、呉座さんにとっては「片付いている」という状態よ。呉座さんの視点だと、オープンレター問題は蒸し返しても仕方ない。「日文研の処分の仕方が問題」という話よ。
もちろん、署名をずさんに管理していたオープンレターでも、罪刑法定主義を無視して一人の人生を大きく毀損することが出来てしまった点は大きな問題よ。けれど、和解が成立している以上は、個人間の話ではなく、あくまで社会問題という位置付けで考えるべきでしょうね。
呉座さんが和解と謝罪を撤回して「再戦したい」とでも表明しない限り、ここで噛み付くのはかえってご迷惑よ。
それではオープンレターの問題点は?
直前で言った通り、社会問題という位置付けで問題があるわ。
私の記事を読みに来る人ならご存知とは思うけど、完全にキャンセル・カルチャーでしょ、これ。
問題のオープンレターが、あくまでも女性差別文化への抗議に留まり、「表現の自由」を萎縮させるような呉座さんのキャンセル(事実上の解雇)まで意図していないなら、「それはやり過ぎだ!」という声明でも発表してくれない?
本来、仕事を失わせるほどの重さで人を罰するのは、ちゃんとした司法の手で、罪刑法定主義に基づいてなされるべきよ。
この路線から外れて、「どんなに雑でもたくさんの声を集めれば、法律の規定をはるかに超えた重罰を与えることが出来る」と社会的に正当化することは――要は単に「実現」してしまうことは――とても悪い事態を招くのは明白でしょう。
日本国憲法の第14条と第31条で表明されている理念は何のためにあるの?
日本国憲法第14条 第1項
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
日本国憲法第31条
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
私は、「国家権力がやるのでなければ憲法違反ではない」とかいう薄っぺらな話がしたいのではないわ。
キャンセル・カルチャーについて「あ、これやっていいんだ!」という社会的合意が形成された時、そこで始まるのは法の下の平等を無視した、ひたすら続く地獄のような潰し合いでしょう。
キャンセル返し、キャンセル返し返し、キャンセル返し返し返し……。
そんな社会を実現することが、果たして私たちの社会にとって「良いこと・良い変化」なのか、社会学者であるところの小宮さんに問いかけたいわ。このキャンセル合戦は、正しい民主主義の現れ? 私からすると衆愚政治に過ぎないのだわ。
現代日本では何か"運のみ"で「リベラル左派」みたいなものが有利っぽいから、それに思想的に適合するキャンセル・カルチャーの発動は、ひょっとすると気分がいいことかもしれない。
けれど、おそらくご存知のように、諸外国ではバックラッシュも強くなってきていて、実際に「どちらがよりキャンセルする力が強いか」の勝負が始まってしまっているわ。(代表例はまあ、韓国でしょうね。)
これねー……私はすごくイヤなのだわ。
原理的にはマイノリティ不利の勝負だし、大衆の「なんとなく弱者属性には優しくしなきゃね」という空気が壊れた瞬間、あっというまに瓦解するでしょう。
だから、ぎりぎりのところで憎悪をこらえて、フェミニストの論を批判してもその人自身をキャンセルしないように――また、私がキャンセル方向の論を展開しているとは思われないように――気をつけているのだわ。
でも、このままゲーム盤のルールが「どちらがよりキャンセルする力が強いか」のまま変わらないなら、私もそのルールに基づいた戦略を立てざるを得ない。
その超クソゲー、やりたくないのよ。分かってよ。
人の職場に内容証明郵便を送って「オープンレターに言及するな」という圧力をかけて回っている人もいるようだけれど、そのゲーム、本気の本気でやるつもり?
オープンレターそのものは呉座さんと和解が成立している以上はいったん「解決済み」に放り込めたとしても、「言及するな」の圧力に関してはそうではないわ。言論に基づかない外法で「思想の自由市場」への支配力を発揮しようとする、「表現の自由」に対する脅威だと受け取る。
小宮准教授の対応の問題点
私はそう考えているのだけど、小宮さんのツイートを見ていると、自分が非常にバカバカしく思えてくるわ。
まず、賛同していない人の名前が勝手に登録されている問題への対処。
いや、それ絶対、対応の方法が違うでしょ!?
小宮さん、本人が「名前が勝手に使われている」と気づかなかったらそのまま掲載しつづけますって言っているに等しいけど、それあり?
仮に、あなたの「小宮友根 東北学院大学准教授」って名前と肩書を勝手に署名に入れられた時、その署名の中心的人物から、「気づいてあなたご自身でメールしない限りは消しません」って言われて、それで納得できるの?
あの、自分がどれだけのことを言っているか、ちゃんとご認識していらっしゃる?
そうではなく。
まず「確実に賛同した」と確認できている人以外は全員の名前を削除して、それから個別に確認がとれ次第、順次掲載していくのが普通の筋道でしょう。
そもそも社会的地位のある人や有名人が目立つけれど、そういう人たちって忙しいのだわ。
そんな人たちが、「もしかすると、小宮准教授が中心として行っているらしい謎めいた署名活動に、自分の名前が勝手に使われているかもしれない!」と自主的に気づいて見に行くって、現実的に一体何人がやるのよ……。
「自分で気づけなかったら、お名前を利用させて頂きます」というのは、かの有名な「不誠実ポイント」とは何ら関係のない事象なのかしら?
そして、次のツイート。
あなたはどちらかというと、憤られている立場でしょうに……。
不本意に名前を使われていた人に謝罪するより先に正義漢であるかのように「強く抗議します」と言ってる場合じゃないのだわ。
また、オープンレターに書かれている「御高説」と身内・仲間への対応との間にある矛盾点にも言及するべきでしょう。
小説家・佐藤亜紀氏が、呉座さんに対して極めて侮辱的なツイートを行った件について、呉座さんご自身もブログにて次のように述べているわ。
(現在、当該ツイートは削除されており、法的に問題ないと考えられるツイート公式埋め込み引用ができないため本記事では省略するわ。呉座さんの記事では読めるからそちらを参照してね。)
このツイートは社会通念上許容される限度を超えた侮辱であり、ツイートの削除はもとより、謝罪文の公表を求めます。
今後につきましては、弁護士に相談し、プライオリティを考えつつ適宜対応します。
呉座勇一のブログ『小説家佐藤亜紀氏の私に対する誹謗中傷について:2022-01-16』(visited 2022/1/22)
『この指止めよう』と同様の構図で、私も含めた一部の人々からは「御高説を垂れながら、結局、身内無罪か?」と問われているのだわ。
「表現の萎縮」による自主規制を知る:今回の記事について
今回の記事を書いて公開することについて、私は「とても怖い」し、「とても嫌な気持ち」よ……。
この記事、ぶっちゃけた話、文言・表現について自主規制しまくってるのだわ。
一応、相当な訴訟リスクおよび削除リスクを懸念しながらも、力の限りは頑張ったつもりよ……。こんな萎縮した表現ある? ってくらい我慢したわ。とても悔しいけれどね。私も会社員としての生活があるし、気持ちだけでは走れない。
ぶっちゃけ訴訟されて敗訴した場合に支払うことになる見込み額を計算したレベル。通帳残高を確認したわよ。罪に該当するような記述をしたとは考えてないけど、こんな世の中だし、司法判断は予想しにくいのだわ。
……。
…………。
―――ちょっと一度、「ぱちゅりー口調」をやめます。急に驚かれるかと存じますが、こればかりは「真面目に」お伝えしたいのです。
ここから先は、単なる「手嶋海嶺」として書かせて頂きます。
『私』から/表現が萎縮するとき
私も初め今回のテーマに関しては「書きにくい、書くべきではないのかも」と感じていました。
そして、書いている途中で、「だからこそ、書いて、公開しなければならないのではないか」と思い始めました。
なぜかと申しますと、今回、私が執筆中に感じた一連の想念、
「書きにくい、書くべきではないかも」
「書くにしても、できるだけリスクを減らすために、表現できるのはこのくらいまで。正直本当にしたい表現とかなり違うけれど、仕方がない」
「これでも訴訟はありうるかもしれない。訴訟されると本業の仕事はどうなる? 今後の生活は大丈夫か?」
という苦しみや恐怖こそ、現場の表現者の皆さんが日々相対しているそれの縮小版――本当にごくごく小さな縮小版――だと気づいたからです。
私の今回の感覚に、更に生活と、さまざまな「表現者としての信念」が加わっていっそう深刻に悩まされ苦しまされているのが表現者の皆さんでしょう。
私は最悪、Twitterもnoteもなくなっても困りはしません。漫画家さんにとって漫画を描き出版することは「その人にとっての夢」であることが多いと思いますが、一方で、私がnote記事を書き公開することは特段「私にとっての夢」ではありません。
極端な話、削除されても訴訟されても、「あーあ、すごく損したな」で済みます。再就職先を探すのは面倒ですがこれも出来なくはありません。
しかし、クリエイターさんは断じて「この程度」ではないでしょう。もっともっと、遥かに深刻です。
とつげき東北さんは、シミュレーションを用いて、
「あいまいな(予想できない形でラインが動く)自主規制は、明確に定まった公的規制よりも"破産する個体"を多く生み、市場全体も縮小する」
という現象を数理的に示されました。
私は当該記事の字面を目で追って何か「分かったつもり」になっていましたが、今回、その「自主規制の危険性」を小さく体験したことで、シミュレーションと実感がようやくかすかに繋がりました。
本記事について事前に相談させて頂いたところ、以下のコメントを頂戴しました。(掲載許可は得ております。)
【とつげき東北さんからのコメント】
私は著書(麻雀研究の本や論理思想の本)を複数出版し、またエンジニアとして活動し、大学で講義等をしている表現の「当事者」です。当事者としての危機意識を共有したく、「自主規制の進行と表現の衰退モデル」を作ってみました。試みとして、「規制が曖昧であるほど、同程度の厳密な規制に比べて自主規制が進むこと」「規制を破った場合のリスクが巨大な場合、自主規制は速やかに進行していくこと」等を透明化することができました。
表現に関する活動の一環として、私は「アラートループ事件」という、エンジニアの世界における「表現の自由」問題に、発起人の一人として関わりました。司法・警察権力と半ば対立する形で行動するにあたり、「規制される表現の限界」が表現者側から見て「ほぼランダム」なので、自分自身が書類送検される具体的な恐怖を感じ、無料公開していた人気のフリーソフトを削除せざるを得ませんでした。失うものが大きすぎるので、損失回避行動を取るのは当然です。
昨今、いわゆる旧来のポルノどころか、ライトノベルでの「〇〇は私の右腕だ」というだけの表現が「腕のない方に失礼だ、と炎上する可能性がある」という理由で、出版社側から自主規制される事態を迎えつつあります。これをいわば他人事のように、半分冗談みたいに評論・批判されている「良識ある市民」の正常性バイアスはいかほどのものでしょうか。ニーメラーの警句にあるように、弾圧が進み、やがてはTwitterで「ラーメン美味しかった~」と発言することが、謎の燃やし職人に「食事ができない方に失礼だ」と取り沙汰され、発言者の社会的地位や各種権利を喪失させ、あるいは喪失されることを懸念して不可能になる世界が間近に迫りつつあることに、どうして鈍感でいられましょうか。
「こんなことで規制するのはあり得ない!」ではなく、もう既にあらゆる部分でそれが生じています。「SNSは一切禁止」という社内規定を持つ企業も増えています。日本人から、「ラーメン」と表現する自由が、奪われつつあります。加えて、社会的地位の高い人ほどリスクが大きく、そういった意味で質の良い表現ほど消えていくのです。
とつげき東北さんからは、改めて本記事にある訴訟または私企業による自主規制(例えば、私の勤務先に連絡され、上司から表現が止められるなど)のリスクと、他様々な規制の現状に関する事例を伺い、事態の深刻さを実感させられました。
どのような規制でも、「これをしたら駄目」がはっきりしていればまだ良いでしょう。明確に何が条件か事前にわかっていれば、内容が何であれ安心して書くこと自体はできます。(心配になるのは見落としくらいでしょう。)
しかし、唐突に「炎上」したり、あるいは「今回、その表現はやめてくれ」と昨日までは良かったラインさえも動くのが現実の状況です。
伝えようとすると、いかにも漠然としてしまいますが、「これだったのか」という学びがありましたので、最悪、色んなものを失う覚悟をしてでも書いて公開しようと考えました。
もちろん、こんな記事一つでプロの表現者の皆様と「肩を並べた」などと傲慢なことは言えませんし、誓って、考えてすらいません。しかしながら、「これを尋常でなく深刻化させたものこそ、表現者の方々が直面している現実の一部なのだ(「自主規制」以外の多くの苦しみがあるでしょうから、あくまで一部に過ぎません)」という点だけは、せめて個人的に刻みつけておきたいのです。
また、このような表現の自由の行使は、その人の持つ資金力に大きく依存しする点も改めて意識させられました。前節で述べました「通帳残高を確認した」というのは本当です。(余裕があるとは言えません。)
プロの表現者であっても、羨ましくなるほど稼げる人はごく僅かです。生活のため安全を考え、大幅に萎縮した不本意な表現もせざるを得ないでしょう。そして、そこまで萎縮させても、「不運にも」コンテンツの掲載を断られ、あるいは掲載されても炎上し消滅する可能性があります。いえ、可能性があるどころか、私の知らない至るところで起きている現実です。
その人たちは、次の仕事を得るためにも、いちいち「声をあげる」ことなど出来はしないでしょう。SNSなどで軽率に業務に関する内々の話を暴露する人と、誰が一緒にビジネスをしたいでしょうか。
もちろん、私は「ほんの少しだけ気づけた」から、そこまでで良しとして、「公開自体はリスクだからやめる」のも一つの――おそらくは「より賢明な」――判断でしょう。
儀式的行為であるため、真似される必要は一切ありません。それでも私としては上のように考え、今回のテーマで執筆および公開に至ったと、長文乱筆にて失礼ながら、説明させて頂きました。
では、最後にキャンセル・カルチャーが特に注目されるきっかけとなった、ハーパース・マガジンに掲載された手紙(これもある種のオープンレターでしょうか)を紹介させて頂いて、本記事を締めくくります。
情報と価値観をもってして、一切の制約なく討論できることは、自由社会の生命線だが、これが日々狭められている。もう過激な保守派の常套手段となりつつあるが、検閲的風潮はもっと広範に我々の文化を蝕みつつある。例えば相反する価値観への不寛容、中傷誹謗の横行、そして複雑な政治的問題を一刀両断に倫理で決めつける傾向などがそうだ。
我々はこれよりもっと懐の大きい、全方面からの議論を尊重したい。だが今日では、一見まちがっているとされる発言や考えに、予断を許さず容赦ない鉄槌が下されることが少なくない。さらに問題なのは、組織のリーダーが失態を慌てて取り繕おうと、組織改革の前に急いで火急な処罰を決断してしまうことだ。
例えば、真実味が足りないとされた本が出版されなくなる、異論の多い投稿を掲載したとして編集者が首になる、ジャーナリストが書くことを禁じられたトピックがある、古典作品を引用しただけで調査の対象となる教授がいる、査読済みの研究を配布した研究者が解雇される。そして、中には不注意な間違いが元で組織を追われる所長がいる。
個々の件についてどんな議論があろうとも、結果は同じ、報復やバッシングを恐れてどんどん発言の場が狭められてしまうのだ。既に作家、アーティスト、ジャーナリストの中には、生活の糧を奪われることを恐れ、コンセンサスとはかけ離れていたり、多数の賛同を得られないことを避ける傾向が強まっている。
息の詰まるようなこの空気は、しまいには今の時代に一番必要なものを奪っていくだろう。抑圧的な政府であれ、不寛容な社会であれ、ディベートを制限することは、権力を持たぬ者を傷めつけ、誰もが積極的に民主主義に参加しにくくする。よろしくない考えを打ち負かすには、それを陽のもとに晒して議論し、説得を試みることであって、黙らせたり、なかった事にすることによってではない。我々は、正義か自由か、という欺瞞にあふれた二択に与する者ではない。
書き手としての我々は、そこに実験の余地があり、リスクをとり、時には間違いを犯してもいい文化を必要としている。キャリアを潰されることなく、相容れない考えでも真っ当な議論の結果として受け入れられる可能性を残さねばならない。我々自身がものを書く礎となっているそのものを守らずして、どうして読み手や国がそれを守ってくれると信じえようか。
HON.jp News Blog, 大原ケイ『キャンセル・カルチャーは言論の自由を損なう脅威か、過剰なポリティカル・コレクトネスか:2020/8/5』(visited 2022/1/22)より、 “A Letter on Justice and Open Debate” – Harper’s Magazine / July 7, 2020"の訳を引用した。
※強調は引用者による。
このキャンセル・カルチャーの流れは、真剣に改善していきたいと考えています。私の力は本当に小さくて、まだ何のお役にも立てていないでしょう。それでも考えては書き、書いては考えたいと思います。
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それでは、また次の記事でお会いできれば幸いです。
手嶋海嶺
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