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「ららぽーと沼津xラブライブ」コラボポスターの表現は「修正」すべきなのか?~マスナリジュンさんのツイートと配信に寄せて~

ゆっくりしていってね!!!!

さて。今回はマスナリジュンさんの次のツイートについて、私が感じた問題点を書くのだわ。

本件については、先日7/31にもマスナリジュンさん神崎ゆきさんでスペース配信(YouTube Liveでも同時配信)をされていたので、その内容も踏まえつつ私見を述べさせて頂くわね。

【注意】
配信の録画は非公開のため視聴した際の私の記憶に基づいて書いております。気を付けてはおりますが、もしマスナリジュンさんのご見解の紹介・要約に誤りがございましたら、誠にお手数ですがお知らせくださいますと幸いです。ただちに修正致します。

マスナリジュンさんの意見の趣旨は、

「ららぽーと企画の主催である三井不動産は、グローバル化を志向してブランドイメージを大切にしている。よって、炎上するような表現をすると、ブランドイメージの悪化を懸念して今後コラボ自体がなくなるリスクがある。表現を守るためには、一定の自主規制が必要である」

――といったところよ。

念のため注記しておくと、マスナリジュンさんとしても自主規制を含む表現規制は良いことだとは考えていらっしゃらないわ。

ただ、「表現の場自体がなくなる」(今後コラボなどしないでおこうと資本家やグローバル市場に判断される)リスクを考えると、表現を守るために時には修正が必要であるというご見解ね。

そして、私はこの論に反対だわ。

まず、マスナリジュンさんの論は、「自主規制することで、外から圧力がかかって表現の場が奪われることが避けられる。少なくとも緩和できる」という仮定を採用していると推測しているのだけど、これは2つの点で間違っているわ。


自主規制によって「勘弁してもらえる」のか?

第一に、ずいぶん昔から――それこそ私が生まれる前から――広告業界や出版業界、映画業界、ソフトウェア業界(ゲームとかね)は自主規制をやってきているわよね。

その自主規制はずっと厳しくし続けているのだけど、でも、じゃあ「炎上」は抑制されている傾向にあるのか、更なる表現規制を求める声は小さくなっていっているのかというと、マスナリジュンさんご自身が「ジェンダー意識の高まり」と仰っているように、歴史的な現実を見ても、どちらかというと自主規制すればするほど、さらに自主規制せよという要求が突き付けられるばかりだったと思うのよ。

ラブライブ!のみかんポスターは、今まで行われている自主規制を満たしたもの(「スカートの陰影をセル画的に描いてはならない」という自主規制は存在しなかった)だったけれど、「足りない!」と騒がれたわよね。

じゃあ、自主規制に次の規制の声(炎上騒動)を防ぐ効果って、無いでしょう。

マスナリジュンさんはスペース配信の中で、「スカートの影表現は問題がないのだという日本のオタクの内輪的な理屈が、資本家やグローバルスタンダードに通用しますか? 通用しないでしょう」との旨で問いかけていらっしゃったけれど、それはある種の正しさがあるとしても、「自主規制が通用しない可能性」および「自主規制によって事態が余計に悪化する可能性」についての検討がやや不足している気がしたわね。

マスナリジュンさんは、ラブライブのスカートの影表現については既に「みかんポスター」で炎上した前例があるのだから、それに対応しなかったことで担当者が責められ、コラボ企画自体が今後行われなくなることを懸念されていたわね。

でも、だからといって修正したら、それは表現規制派に対して「炎上させたらその次から当該表現を修正させることができる」という成功体験を与えることになるわ。

その成功体験に味をしめて、新しい要求を次々と突き付けてくるようになるというのは、私の論に都合のいいように嫌な未来を述べているのではなく、現実の自主規制の歴史が示しているでしょう。このリスクの検討が抜け落ちているように感じられたわ。

予言してもいいけど、ラブライブ!のスカートの影問題を「修正」したら、今度はスカートが短いだとか、色白の美少女ばかりなのが多様性とルッキズム的に問題があるとか、あるいは「高校生アイドル」という設定自体が少女を商品化していてダメだとか言われるわよ。

スカートを長くするという「軽微な修正」
褐色肌や黒い肌のキャラを追加するという「軽微な修正」
高校生ではなく大学生(成人)の設定にするという「軽微な修正」

こんな風にその都度「軽微な修正」をしていったら、それは結局「表現が死ぬ」のと変わらないわ。

加えて「軽微な修正で許してもらえる(これ以上の修正はしなくてよい)」にある程度の確信が持てるならいいけど、そのような確信は持てないし、これまでの表現規制の歴史を考えれば、むしろその逆になる可能性の方がずっと高いわ。

とつげき東北さんがコンピュータシミュレーションを用いて、たとえば自主規制のように基準が明確でない規制がある環境下では、表現およびその市場が衰退していく(逆に明確な基準があればそうはならない)という結論を導いているわ。

フェミニストの攻撃は「どの程度の表現が急に炎上するかわからない」という意味で基準が明確でないため、まさにこの「自主規制」の萎縮効果をもたらすわ。

シミュレーションの内容を一部簡単に紹介させていただきましょう(有料部分だけれど許可は取ってあるわ)。

次の図は、横軸が表現の自由さ、縦軸は個々の作品や市場全体の利得を表しているわ。

規制される基準が明確な場合、横軸(表現の自由さ)は一定まで担保されつつ、縦軸(個々の作品や市場全体の利得)はかなり満足されるのだけど、基準が明確でない場合には、次の図のようにだんだんと自主規制で「表現の自由さ」が減っていくわ。

そして、最終的には、「表現の自由さ」も「市場規模」も最低の状態で安定してしまうのよ。

表のほうも引用すると、

とつげき東北『【自主規制は損!】いかにダメかを、数理科学的に証明してみた(表現規制版)』

始めのうちは「自主規制」でそれなりにうまくいくように見えるけれど、最終的には表現も市場も失敗すると論じられているわ(詳細は記事参照よ)。

また、とつげき東北さんは、クレジットカードがポルノサイトの決済を行わなくなった問題に寄せて、今後の自主規制への対策についても次のように述べているわ。

以下、少し長いけれど、重要かつ勉強になる部分だから、あまり削らず引用させて頂くわね。

憲法によって「表現の自由」が基本的人権として定められています。
先に述べたとおり、「表現の自由」には、単に何か(この場合はポルノ)を表現する自由だけでなく、国民の「観る権利」も含まれています。

したがって、仮に民間企業たるクレジットカード発行会社の多くが決済手段を禁じることによって、国民の基本的人権である「観る権利」が侵害されるような状況に陥るのならば、国家等(地方政府も含む。以下同様)は、「観る権利」を保障する義務があります
民間企業が「それぞれ独自に規制した」のだとしても、国家等は、権利を守るために、例えば、
・個々の民間企業に対して、規制を解除するよう勧告等を行う
・国家が民間企業と同等の決済手段を用意し、規制されたサイトで決済ができるような仕組み(国家発行ポルノサイト用クレジットカードの発行とか!)を作る

などの対応が求められます。
冗談じゃない。当然のことです。
(中略)
他のたとえを出すなら、国家等は、犯罪者から一般人を守る義務を負っています。
誰かが殺人犯に追いかけられているとして、そこらへんの民間人や、たまたま近くにあったコンビニの店員、ラーメン屋の店主が、その誰かを守る義務など一切ありません。勇敢に立ち向かったらエライのですが、それは偶発的・個人的な活躍でしかありません。
とすると、誰が「殺人被害」を止めるのでしょうか。
もちろん、それは基本的人権たる「生存権」を守ることが日本国憲法で義務付けられた、国家等の役割です。具体的には地方公務員の警察官などが、殺人を防止するために仕事をするわけですね。

実は、「表現の自由」を守ることも、これと同じ枠組みで捉えられるのです。誰かが不当に「表現の自由」を規制したならば、国家等が、その状態を止める義務を負います。
ですから、仮に民間企業(クレジットカード会社)が、特定のポルノサイトの決済をさせないというならば、それに対して迅速に適切な対応をしなければ、国家等が義務を果たしていないことになるのです。
国家等は公権力を持っていますので、こうした「当たり前の義務」を果たさないとなれば、それは権力の暴走に他なりません。
人が殺害されそうになっていても警察官が無視するようでは、それはあまりにもダメですよね。生存権や表現の自由などの基本的人権を守るのは国家等ですから。
構造は同じことです。

もしも民間企業が表現規制をするなら、公権力が守らないといけない。
しかも公務員は「全体の奉仕者」ですから、特定の人や企業だけの利権を守ってはいけないのです。
「税金をたくさん払っている人や法人にだけ権利をあげる」とかは絶対に禁止で、「国家発行ポルノサイト用クレジットカード」は、国民全員に支給しなきゃいけないのです!

公権力は、私企業の独占を禁じることについても、法律上の義務を負っています。
現実的にわかりやすい例でいえば「独占禁止法」などがあって、特定の民間企業が「市場原理だ」と強弁して高値でモノを売ることなどは、しっかりと禁じられています。そこに公権力が介在しなければ、一部の人々のみに富が偏在してしまいますから。

とつげき東北『【自主規制は損!】いかにダメかを、数理科学的に証明してみた(表現規制版)』


まとめると、「自主規制が有効な対策になるという保証は無いどころか、逆に悪化する可能性が高いと推察される」が第一の問題点よ。

「修正」は表現の生存ではなく死である

第二の問題に移りましょう。こっちのが本質的かしらね。

圧力に折れて表現を「修正」した時、それは「その表現が生き残った」「修正によって、表現を生き残らせることに成功した」と言えるのかしら?

修正された表現というのは、完全に自明だけど、そもそも修正前の表現とは「別物」でしょう。

たとえば『鬼滅の刃』で、鬼とはいえ人語を話す生物の首を斬って「殺す」のは残酷だと炎上したとしましょう。そして「作品を生き残らせる」ために、作者の吾峠呼世晴さんと集英社が協議して、代わりに謎ビーム攻撃(かめはめ波的なやつ)で「倒す」ことにしたとするわ。

それ、『鬼滅の刃』?

「炎上して作品(表現)が消されないように、表現を修正すればいい」という論は、私は「先に自殺しておけば死刑にならない論」と呼んでいるわ。

「表現を守るために表現を(自主)規制する」って、完全に本末転倒なのよ。

「スカートの影表現くらい軽微じゃないか」と思う方もいるかもしれないけど、「作業」が軽微なことと、「表現」が軽微かどうかは全然別よ。

クリエイターが全力でイラストを描くとき、「たかが影」の1つ1つを、より優れた完成品を求めて試行錯誤しつつ加えていることがほとんどでしょう。できあがった作品を見て、第三者が「この影を消す作業は簡単でしょ?」というのは、完成品に至るまでの情熱と努力を、作品とともに「簡単に消してしまう」行為に等しいわ。――もちろん、そこまでのこだわりの無いクリエイターさんもいるでしょうけど。

マスナリジュンさんは「生き残るためだから」と主張されていたけれど、クリエイターさんにとって、その影の1つ、ある線の1本がとても大事なもので、それを不本意に変更されるのでは「作品が死んだ」ことになるわ。 極端な例では――最後の4行、4分の描写で結末が急変する小説や映画に対して、その4行4分を「修正」して削れ、と言うのと同じように。

「変更する」ということは、つまり「元の表現は生き残れなかった」なのよ。考えてみれば当たり前よね。

もちろん、こうした不本意な自主規制については、マスナリジュンさんもクリエイターとしてのご活動をされていらっしゃるから、その苦しみは私などより痛切に体感されていることと推察するわ(だからこそ、有効性に乏しいと思われる「自主規制」を呼びかける側に回るのではなく、表現を守るための他の方策を一緒に考えたいと思っているのよ)。

ららぽーとのラブライブ!のスカートの影表現について、私は「修正対応をしなかった」という前例を作った点で非常に良かったと評価しているわ。

「自主規制」を肯定してはならない

まとめると、マスナリジュンさんがおっしゃる「自主規制」は、2つの観点から「表現を生き残らせる道」として成立しないというのが私の持論よ。

1つは、これまでやってきた自主規制で全く満足されず、次々と新しい自主規制が「要請」されている中、もはや自主規制すれば勘弁してもらえるというのは成立しないと歴史的に示されていることね。とつげき東北さんのコンピュータシミュレーションではその未来が示唆されているわ。

もう1つは、「修正」した表現は、実のところ「生き残った」のではなく、「元の表現は死んで、別の表現になった」に過ぎないということ。

本記事としては、自主規制(曖昧な基準による規制)で表現を守るという方法は、多くの人が思っている以上に悪手になりがちだと再確認するに留めるわ。

「表現を守るために具体的にどうするか?」を考えていくうえで、最初に発想しがちな「自主規制して怒られないようにしよう」について、本記事で述べてきた問題点を押さえて慎重になる必要があると思うわ。

以上!

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