「推し、燃ゆ」を読んで

この本の帯に豊﨑由美さんが「すべての推す人たちにとっての救いの書であると同時に、絶望の書」と書いてあるが、本当にに絶望をみた。

無職になって、いままさに「なにわ男子」の沼にはまりかけている私の身としては、自分の事の顛末を覗き込んでいるような…。

(以下、ネタバレ含みます)
ところどころ自分とも重なった。「社会不適合者」物忘れも激しく、片付けられない。バイト先でも注文を忘れたり、なかなかこなせない主人公あかりは、発達障害を抱えているように見える。

バイトの業務も勉強もうまくいかない。家族にも理解されない。そんな時に、ピーターパンを演じた上野真幸に惹かれる。彼は純粋無垢なアイドルではなく、どこか影があるような存在。「大人なんかになりたくない」ピーターパンが劇中に何度も言ったそのセリフを、あかりは「自分の一番深い場所」で聞いて、「あたしのための言葉」と思う。そこは、社会が求める「普通」にはなれないことへの反発・諦めの気持ちがあり、真幸へ一体化し、崇め、推すことで、現実からの逃避=「ネヴァーランド」に足を踏み入れる。

それにしても、あかりの推し、上野真幸は闇深い。5歳の初めての撮影で着ぐるみのクマが笑わせようとした時に、推しは、泣きたいのに笑って見せる。そして悟る。「作り笑いって誰もわからない。自分の思っていることは誰にも伝わらない」と。そんな推しの理解者になりたいと、あかりのブログは健気さがある。

「彼(推し)には引きつけておきながら、同時に拒絶するところがある『誰にもわからない』と突っぱねた、推しが感じている世界、見ている世界を私も見たい。何年かかるかわからないし、もしかしたら一生、わからないかもしれないけど。そう思わせる力が彼にはあるのだと思います」

ラジオやテレビ、あらゆる推しの発言を書き取ったファイルが20冊を超える。彼の影が、自分に潜む葛藤と重なり、「彼を理解したい」という気持ちは、共犯者を見つけ出す喜び、同じように「誰にもわかってもらえない」けれど、「理解されたい」というあかりの思いの表れなのだと感じる。

話は変わるが、よくうちの犬が体調を崩すと母も病気になった。母が体調崩したのをみて、犬がそうなったのか。相手を思うあまりに自分の分身となって同化してしまうことは稀にある。あかりもそうだ。人気投票で推しが首位から最下位に転落した。以前座っていた「真ん中の柔らかそうな布の敷かれた豪華な椅子」から「普通の椅子」に座る推しを見ると、ファンはそれぞれ、「自分の推しが座る椅子に座った気分」、惨めさを一緒に味わうことになる。

そうった推しへ同化は、推しの転落(グループ解散と引退)と共に、あかりの人生の転落していく。「推しを推すこと」は、オタクの脅威も孕む。「推しのため」の人生を生き、「推し」が人生の全てとなってしまった途端、推しを失うことは、自分自身の行き場を失い、生を失わせられることを意味する。あかりは推しが住んでいるマンションへと向かい、推しの婚約者であるかもしれない女性を見てしまうシーンがなんとも切ない。

あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。私の部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が、一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった。もう追えない。アイドルで亡くなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。

推し活は、癒しをもらえる。生きがいにもなる。ただ、ハッとさせられた。私は、自分の人生を生きなければと。

「一生涯かけて推したかった。それでもあたしは、死んでからのあたしは、あたし自身の骨を自分でひろうことができないのだ」

この本の最後は、綿棒を部屋に撒き散らす。そして、自分自身を骨を拾うように綿棒を拾うあかり。絶望から自分自身を弔って、這い蹲りながらも明日を生きる希望が垣間見られた。

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