8


 蛍光灯を点けると部屋が一色単に明るくなった。
自慢ではないが綺麗好きな性分で
整理された部屋はまるで他人の家のように思えてくる。
母親譲りなのだろう、実家も隅々まで掃除が行き届いており
実家であって実家ではない感覚がいつも拭えなかった。

 今日はどっと疲れてしまった。
幼児30人のお世話をしていればそれはそうだろう。
彼ら彼女らのエネルギーを侮ってはいけない。
立派な肉体労働と言って過言ではないと思う。
 しかし、疲れは決して身体的な面からくるものではなかった。
1人の女の子が投げかけた質問が大きな原因であった。

 2週間後に待ち受ける運動会を前に
私が受け持つ月組のみんなはお遊戯の練習をしていた。
ころころとした手足を一生懸命に曲げたり伸ばしたりと
音楽に合わせて動かしていた。
 やはり、大人の代物と比べると
少し滑稽に写ることもあるかもしれないが
皆の真剣な面持ちは生唾を飲むほどであった。

 「じゃあ、いったん休憩にしましょう」
私は皆に声をかけた。
 お水を飲んで、日陰で体を休めてと続けようとしたが
多くの子どもたちは、すでに各々の水筒に向かって駆けていた。
私の口が動こうとしているのを見届けた残りの子達も
周りを見て水道やらに向かった。
 先ほどまでの、大人顔負けの表情から一転
今はしっかりと5歳の顔をしている。
母の胸に飛びつく乳飲子のように喉を潤す様子は
なんだか心を穏やかにしてくれた。
「パパとママが喜んでくれるといいね」
思わず私は口を開いていた。
目を輝かせるとはこのことか、私の発言に
心踊る彼ら彼女らの目には意思が感じられた。
私が教えることもなく、こうして子どもたちは成長していくんだなと
その時間を共有できるこの仕事をつくづく幸せに感じた。

 彼女の存在に気がつくのには少し時間を要した。
悟れないようになのか、皆の視線を私で隔てるように
背中側に立ちすくんでいた。
「ねぇ、先生?」
か細い声は、私の背中を小さく打った。
少し驚きながら振り向くと、彼女が私の顔を覗き込んでいた。
その目は、気持ち程度の光が差し込んだ深淵のように蒼く見えた。
 「何で私にはお父さんがいないの」
来た。と思った。
その刹那、彼女の瞳からは涙がこぼれ始めていた。
私は、その涙をハンカチで拭うことしかできなかった。

 練習が再開されると、先ほどとは打って変わって
彼女は一心不乱に自らの配役に励んだ。
当日母親に見えるようにだろうか
心なしか先ほどより動きが大きくなっているように思えた。
今度は、私の瞳から一粒の涙が流れた。

 答えることができなかった。
彼女が納得いくようにとかそういうことではなく
一言も返すことができなかった。
明日、正直に話そうか。
彼女は理解してくれるのだろうか。
あの頃抱いていた私の疑問は
いつしか私の前に逆の立場となって立ち現れた。
無駄に明るい部屋の中で1人、私はいつまでも考えあぐねていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?