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  始まりは彼の些細な一言であった。
「てっきり、醤油で召し上がるものかと」
今思い出しても、その一言はてんで面白いものではなかった。
どこか気取った言い方であることも拍車をかけた。
「たまには、ソースで食べたい日もあるんです」
彼は、私の返事を待っていたかのようににんまりと笑みをこぼした。
そう、普段は醤油を欠けるのだが
その日に限ってソースで食べたくなってしまったのだ。
以前、目玉焼きは醤油派という
意味もない宣言をしてしまった自分を恥じた。
彼はソース派であった。

 暦で言うところの梅雨。私はあの日に家を出て実家へと向かった。
電車で3つ隣の駅である。
初めて彼の家に行った時を思い出した。
今は逆の道を進んでいる。なんだか日が暮れるのが早く感じた。
 きっかけが醤油かソースかなんてものだから尚更罰が悪い。
もう、家に帰らなくなって1週間が経っていた。
彼も私も強情というか頑固な面を持ち合わせていたことから
先に謝るということができない。
もちろん自分が悪いことは誰よりも承知の上である。
でも、けれどもやはり、私から許しを乞うなんてことは
どうしてもできなかった。
 やきもきの毎日はただただ過ぎ去ってゆくばかりで
さらに1週間が経とうとしていた。
流石に戻ろうかと考えていた時分に我が家の電話がジリリと喚き出した。
今思えば、それは緊急を要するために叫んでいたのかもしれないと思った。

 彼は、冷たくなっていた。
唇は、海の深く深く目を凝らさなければ
何も見えない底のように鈍い色をしていた。
再び会う彼の姿がこのようなものであることなって
想像の範疇を容易に超えていた。
もう、私の顔を見ることも声を聞くこともない。
そこにあるのは、彼の抜け殻であった。
「てっきり、私の帰りを待っていてくれているのかと」
その台詞が何度も頭を反芻した。

 後から知ったことであるが
私が出ていったあの日、すぐに彼は私を車で追いかけたらしい。
ただ、私の家に入る勇気がなかったのか
謝るという譲歩ができなかったのだろうか引き返したと思われる。
そして、その帰り道に旧道の林の奥に突っ込んだのだと聞かされた。
舗装の行き届いた新しい道があるため、旧道を通るものは多くない。
そのため、発見が遅れたとも言っていた。
警察官の齢50前後の気の良さそうなおじさんは丁寧に
事故の詳細を話してくれた。
あとは、私が耳に入れ脳に行き届かせ理解するのみだった。
しかし、内容は全く入ってこなかった。
 元気出しなとかそう言った励ましの言葉をかけた後で
すっかり忘れていたように彼の車の中にあったものを手渡してくれた。
それは、封の開いていない醤油の小瓶であった。
 

洗濯物を干すのにはちょうどの良い晴れやかな休日。
変に早起きをしてしまった私は
普段より時間をかけて朝ごはんをこしらえる。
炊きたてのごはんをお茶碗によそい、味噌汁をお椀に入れた。
小松菜のおひたしは程度の良い漬かり具合だ。
アジの開きも今日は上手く焼けた。
最後に目玉焼きを焼いて、ソースを勢いよくかけた。
夏が来たのだろうか、朝食に熱心すぎたのだろうか
額から粒になってこぼれ落ちる汗は醤油差しから滴る
醤油粒のようだ。あれからどうして私もソース派になっている。
 そして、未だにあの醤油の小瓶は開けられないでいるのだ。

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