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 テーブルに並ぶ、三日月型のオムレツに汁っぽいコールスロー
横には大ぶり野菜のポトフと焦げ目のついたウインナー。
注文の際に語気を強めていらっしゃたので
黄身が半熟なのであろう茹で卵も転がっている。
結構なモーニングである。
 向かいに浅く腰を掛け、前屈みの姿勢をとっている
旧友のA氏はそれらを一緒くたんに口に運んだ。
朝から騒々しいやつだと、ご無沙汰の仕草に顔が綻ぶ。
 氏が、徐に食パンに手をかけたところで
これまでの乗気な態度が欠けたように見えた。
どうやら落ち着きを取り戻したのかと思いきや
耳を丁寧にはぎ始ている。
「パンの耳、食べないんだな。」
氏は覗き込むように私の顔をまじまじと見た。
意図せず口からこぼれ落ちた言葉に
私は、苦笑をこらえきれなかった。
「僕は、どうしてもこの硬い部分が苦手で」
氏は恥ずかしそうに答えた。
 2,3本、川の字で雑魚寝するような形で
皿の端に寄せられたパンの耳を見て、一つの情景が頭に浮かんだ。
あれは、大学生の時分の話である。

 東北の片田舎から上京した私はこの春で2級生となっていた。
都会の雑多な雰囲気にもようやく慣れてきていたことを覚えている。
しかし、暮らしぶりまではそうはいかなかった。
幾分、無理を頼み込んでの進学であったために
働き働きの上で学生生活を送っていた。
そう、いわゆる苦学生と呼ばれる身分であった。
 その日も徹夜で路上整備の仕事を終え、朝日と共に床についた。
重い目蓋を遮るように無慈悲に腹は泣いている。
 起きたら何を食べようか。
3つ4つと考えつくかつかぬままのところで、私は夢の中に誘われた。
 アッと目を覚ますと、正午を少し過ぎた頃であった。
 3限に一緒に出ると約束していた友人の声が外に聞こえた。
あまりに遅いので迎えに来たのだろう。
 乱雑な仕草で顔に水をバシャバシャとかける。
少し頬が痩けただろうか。左手で少し撫でてみる。
残ってしまったままの右目の目ヤニを利き手の左の小指でほじくると
腹の減りが収まっていることに気づいた。
胃はまだ寝ているのだろうか、空腹感はどこかで二度寝をしているらしい。
 結局、その日は遅刻し1列目で授業を受けさせられた。
些か友人は腹を立てていた。

 授業の手立てが下手であったのか、集中力の続かない自分に同情してか
決まって連続して授業をとることを避けていた。
そのため、1つの授業を終えると1時間半ほど暇ができるのである。
そのような折には大抵、食堂で時間を潰すか散歩に出かけるかであった。
其時に関しては、食堂で見知らぬ学生をぼんやりと眺めることにした。
学生似つかわしくない風来坊や常軌を逸した様相の浪人生が
所狭しと蔓延る時代であった。
そんな彼らの背中をゆくゆく末の自分であるかのように感じながら
漠漠とした将来に悲観的にならざるを得なかった。
 俺は、一体何になれるのだろうか?
夢と現実の間で覚悟を強いられることに辟易としていた頃でもあった。
誰もが通過するその道も今では、人生を彩るかけがえのないピーズの1片である。
 ふと、タバコを吸おうと考えた。
1箱110~120円で買えた雑種の安タバコである。
食堂から近い喫煙所は混雑していることが多いため
西門付近まで出歩くことにした。
普段の悪行が昂じたのか、その日は西門も愛煙家で溢れていた。
悪いことは続くものである、3つあるはずの灰皿が1つしか置いていなかった。
差し詰め、現在でいうところの分煙の趣向であるのだろうか
往々にして嫌われ者であることには違いない。

 一口吸うたびに、灰皿に目を向けた。
灰を落とすことに注力し、煙の味なんぞ全く舌につかないでいた。
よし、このタイミングだ、意気揚々に灰皿へ趣き
タバコの吸口を親指でピンと弾いた。
私の灰が見事に灰皿へと吸いこまれたその刹那
誰とも知れず灰が私の着ていた
ブルーのシャンブレーシャツの上にフワリと落ちた。
灰を落とし主はK氏であった。
「おっと、すまんな」
氏は、右手の親指と人差し指でつまむように
私へ着地した灰を掃けた。
 顔見知り程度ではあったが、厭うことはなかった。
彼は、数多の学生の中でも取り分け頭が切れるやつであった。
飲む打つといった学生の本分はあまり好まなかったようだが
周りにはたいてい2~3人の人が変わりばんこでくっついていた。
平たく言えば、人気のあるやつであった。

 辺りが、ほとんど闇に包まれる。
おおよその学生は繁華街に赴く頃合いとなっていた。
 私も一通りのやるべきことを終え、
一層、激しく揺れ踊る学生街を横目に家に帰ろうとしていた。
 帰路には、商店街があった。
野菜からシャープペンシル、生成りの生地まで
たいていのものはこの通りで事足りた。
 私は、よく商店街と家の中間ぐらいに
構えた中華料理屋の前で足を止めることがあった。
中から漂う中華4000年の歴史の香り。
窓から差し込む朝日かジンジンと鳴り響く目覚ましの如く
私の腹はムクムクと体を起こし始める。
たちまち、生あくびが飛び出す。
 ちらとスライド扉の奥を覗くと、八宝菜が見えてきた。
8つも宝があるのだから、目に毒にもほどがある。
逃げるように、店先を離れ家路を急いだ。
 あの角を曲がれば、私の家は見えてくる。
角には一軒のパン屋があった。
取り分け名物があるわけでもなく良くも悪くも陳腐な店であった。
 腹が減ると否応にして、食べ物屋の奥を覗いてしまう。
中華屋だけでは懲りずに、ささっと小走りで向かうとパン屋を覗き込んだ。
 すでにあらかたのパンは売り切れていた。
大好きなカレーパンもどこかにもらわれていったらしい。
 店内を隈なく詮索していると、ワアと驚いた。
 厨房の方に氏の姿があるのである。
決して、働いているようなそぶりではない。
店主であろう中年の男性と談笑しているように見受けられた。
 程なく、氏は丁寧な別れの挨拶を交わし店先へ出てきた。
私は、あたかも今角を曲がってきたところのように
氏を見かけ驚く小芝居をうった。
彼もまた私に気づき、笑うとも驚くとも言える微妙な面持ちになった。
そして、右手に持たされていた袋と私を見返しながら
「これから飯を食うんだが、一緒にどうだ」と言った。
袋の中身は数十本のパンの耳であった。
 私は、パンの耳にまで申し訳なく思った。

 彼の家は私のものより見窄らしい様相であった。
何より、「あの彼が」と言う気持ちが大きかった。
彼は、さあさあと私を招いた。
 二階建てのアパートの階段を上がってすぐの部屋が彼の部屋であった。
階段の手すりは錆が蔓延っていた。
洗濯機は廊下に追い出され、カビの生えた靴がそこらにのさばる。
奥の部屋からは隣人なのであろう主が出てきた。
私たちを一瞥すると無言で階段を降りて行った。
酒の匂いがする、酔っているようであった。
 彼の部屋は整理されているものの、部屋そのものとしては
やはり古臭い感じが拭えないことは事実であった。
 部屋に入るや否や、彼は早速台所に立った。
手慣れた様子で油を引いたフライパンにパンの耳を何本か転がす。
すぐに、香ばしい匂いと言うのが一番近いのだろうか
空腹の鐘を大きく鳴らすように強烈な食欲をそそる匂いだった。
いても立ってもいられず、私は台所に歩み寄った。
彼は微笑みながら、焼き目のついたパンの耳に卵を落とした。
卵は途端にパンの耳に吸収されていき
運悪くされなかったものはスクランブルエッグのようになっていった。
 出されたものは、何とも名称のつけられない料理であることは確かであった。
材料は、パンの耳が数本に卵が2つ。
私は勧められるままに勢いよく口へ運んだ。
 味をよく覚えてはいないが、彼とは親友になれた気がした。

 食後のホットコーヒーをすするA氏の食い散らかしの皿には
結果、2枚のトーストから全ての耳が剥切り取られていた。
 2~3度私たちの席を往復したウエイトレスが食器を下げていく。
あのパンの耳はどこかへ恵まれていくのだろうか。
卒業後、K氏とは会っていない。どこで何をしているのだろうか。
 あの頃の私たちは
今さっき持っていかれたパンの耳のように除け者であると感じていた。
しかし、耳はどこかで役に立っていて
いつしかの私自身も仕事相手であるA氏を始め
様々な人間を支えることができるようになっていた。
 今夜は、あの中華屋へ行って八宝菜を頼もうか。

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