自他の多義性について

人間の宿命。―さらに深く考える人は、自分がどのような行為をしどのような判断をしようと、いつも間違っている、ということを知っている。

ニーチェ『人間的、あまりに人間的』

自他の多義性

 自己/他者が多義的であるという事態については、端的には了解されやすい。そこで、ああでもないこうでもない、或いはああでもあるこうでもあるというように言い換える戦略が取られることがある。これが解釈の多義性という事態である。しかし、私の考えとしては、これはどこか言語論理の無理があらわれている事態である。言語などという不出来なものに過重な期待をかけるとどこか無理がくる。しかし、ここで私のいつもの習癖に則って、さらに一段深く考察してみたい。では、数式や科学的定式化、イメージ、現実的なものへの触覚性であればそれはわかるとでも言うのだろうか。それらの理解が重要なのはあくまでもプラグマティックな理由からであり、いわばたんなる道具/機関としての理解としてである。そのような「理解」は、或いは言語的理解であっても、正しいということはあるが、それはあくまでもそのかぎりにおいて正しいのみであり、正しいということは完全な実効性を意味しない。例えば認知症や統合失調症の患者をそうであると理解することは必要な理解であろうが、どう有効に関わるかが問われるのであって、完全に統握したと思い違いをした瞬間、全部間違っていることになる。その点で、あたかもその個体の全体に関わるものとして発達障害やMBTIを設定した時点からそれは「認識」であり既に誤りを犯していることになる。では、「理解」や「認識」といった事態は何を意味しているのだろうか?これらの語には既に本質主義が含まれている場合が多い。一方で、ある意味で「解釈」は「理解」よりもいっそう「認識」的である。有効に関われないかぎりにおいて「認識のための認識」をする点において、である。「理解」はそれとは異なるところがあり、いかに有効に関わるかに焦点を置けばとうぜん実践的に機能させうる。すなわち暫定的理解、仮留めの理解である。しかしだいたいにおいて、病気からの回復期の家族や発展途上の友人などと関わっているとすぐにわかるが、それに留まらず、人を理解してきたと思えてきた頃には相手や相手との関係性の局面が変わっているものである。まず以てしてこれは自己よりも他者の方が理解しやすいからの事例なのであって、実際には自分が不思議に思っているうちに自分が奇妙な局面に追い込まれていることはよくあることだし、自分の問題が問題でなくなっていることもまたあることである。ところで、先程は他者の病識の話をしたが、こと自己の病識に及ぶといっそう事態は他者的である。一般論として言えることとして、自己の病理は自己から疎外されている。これこそ極端に疎外的な事態である。だから、病理をその者の性質と拡大解釈すれば、端的に自己は自己から疎外されているという事態になる。「自分には病識がなく、この夢から覚めた時に全部間違っているということに気づくのではないか」というよくある悩みは、直接他者に関する他者論よりもいっそう他者論的である。彼は自分が全部間違っているのではないかと思っている。しかしこのことも、これまでの生涯を通じて緩慢に同一である人にとってはわからないところである。
 しかし、否定してくる他者というものを実体化することは戒めるべきである。すなわち、他者が否定してくるのではなく、その否定こそが他者なのである。だから、過去の自分の思考は現在の自分にとって概して他者である。

正/不正について

 そこで、そもそも「正解か不正解か」ということを問題にしないとしたら、新しい地平が開かれるのではないか、と考える。いかにプラグマティックに関わるのかに焦点を置いてみると、必ずしも正解/不正解という問題系は問題にならない、或いは問題にしないような世界との関わり方もある。
 恐らく、「正解」という対応説が我々の中に侵入してきたのは相当古い段階である。「こうなるだろう」「これがあるだろう」という予測と結果の一致に由来していると思われる。ところで、我々は原初的に存在一元論者かカオスにまどろんでいるかということを言えば、一旦はこう考えるのが一番よいと思う。存在そのものとは現実的なものであり、それは従ってカオスである。しかしこれは恐らく完全でない。というのは、全く動いていないものは視覚機能的に認識できないように、原初的には、認知過程的にある段階に至るまでのものを認識していないということである。恐らくこれが一番しっくりくる。というのは、幼児に絵を描かせると著しく顔を大きく描くという事実がそれである。恐らく、本当に乳児などは、いないいないばあの時に認知から「存在」が消滅している。そこで乳幼児は自己刺激、すなわちセルフで存在の存在を確かめるための指しゃぶりなどをするのだろうと思っている。ここで気づかれることだが、もはやこのようなことを語るさいに「存在」という語は使わない方がいい局面にくる。我々は感覚神経-運動神経や自律神経に制御されているのであって「存在」に制御されているわけではない。ある意味、先のような「存在母性論」は精神の安定装置である。しかし、先の議論で明らかになったことは、恐らく「正解」という観念が「存在」観念と関わっているということである。すなわち、存在とは正解であり、正解とは存在である。
 そこで、「存在」という観念を捨てることで「正解」という観念も捨てることができる。感覚神経に入力するものを「刺激」と言うが、刺激を感じることは正解も不正解もなくプロセスとして成立している。実際には「存在」以前に、「観念」抜きで成立している事態の領域は膨大である。部屋の中の構造物など、イメージで掴んでいるものも大半は観念抜きで成立している。その変形は「不正解」というかたちではなく「違和感」というかたちで生起するはずである。考えてもみれば、間違い探しはどちらかが正解でどちらかが間違いであるはずがない。「正しさ」には「本来性」が見え隠れする。

「遠隔対象性」について

 吉本隆明の議論に「遠隔対象性」というものがある。これは、人は年齢が長じるとより遠隔の対象に志向性をもつようになるというものである。例えば、青年が身近な大人や教師に反発するのはたまたま彼らが彼の身近にいたからだし、その志向性の行き止まりは書物だといったことである。恐らくこの概念をさらにパラフレーズすると、私のいう「自己制作の志向性の彼方に父がいる」ということになろうと思う。私は今この文章を帰省中の実家で、父のパソコンから書いている。
 そう考えると、親のせいで、または友達のせいで自分の能力が制約されているというのは責任転嫁も甚だしい観念である。その前提には、人には何かニュートラルな理想状態があるかのような観念がまとわりついている。これは端的に自己から隠蔽された他者への想像力のなさによるものである。隣人も、日々の情念の動揺のなか何かに制約されて活動の成果を成果として現実化している。隣人はフラットで、私だけが不当に制限されているという事実関係はない。事実、私がこうしてこの文章が書けているのもこれまでの諸々の対幻想の為すところである。暴力を振るい性犯罪で逮捕されたことのある父親のパソコンからであっても、こうした文章を打ち込んでいるのである。人の現実的な対幻想は縁であり、私は今の友達には感謝しているので、山羊のように無為に登攀するようなしぐさはこのあたりでよそうと考えている。
 そのうえで言えば、考えてもみると「遠隔対象性」は概して「購読者」層向けに言われていることであって、「地元のダチ」と後生仲良くやっているマイルドヤンキー層には無縁の事態ではないだろうか。或いは、彼らにとっての遠隔対象は中央で活躍する歌い手やネットを賑わせる俗流のYouTuberなのだろうとも考えられる。だからいかに「遠隔対象」と言ったところで、彼は「高み」にいなければならない。すなわち、なにか「遠隔対象」と言って言えた気になっていても、実際のところはあの聖書中の「バベルの塔」で民が父の視点から世界を観望しようとしたごとく、或いはそれと全く同じように、田舎の農家から出世して財を築いた祖父の息子たる私の父が、ある時、「名護屋城の跡地にやぐらでも建ててくれたら、秀吉が見たのと同じ景色が見られる」と言っていたのと同じことではないだろうか。私は、青年期より父には尊敬の念がなく、むしろ一貫して祖父に敵わないと思って生きているので、「エディプス化」も祖父への同一化のかたちをとった。しかし祖父は何か日記を書き残すタイプでもなかったし、また私がものごころついた頃にはパーキンソン病の影響で呆けていたので、あまり参照点にならない。いくつかの断片的なエピソードから伺い知るだけである。そこで私の取った戦略は、祖父の代替者として田中角栄を参照することであった。また、河本英夫を参照点にしたこともそれであろうと思う。しかし最近気づいたが、私には向いていなかった。そのしぐさで生きていた時期がとても苦しかったのがその何よりの証拠である。だから、次には友達を参照点にしたが、そうすると非常に着心地がよく、精神的にも落ち着いた。やはり、私にあのタイプの豪快さは微塵も向いていなかったのである。むしろ、日々小さいことをやっていくほうが性に合っているようだ。だから、「エディプス化」もあくまでも高度に観念的なフィクションとして捉えるべきであって、「現実の父親」と一対一対応させてはならない。むしろ精神分析や現代思想や聖書的世界観で言われる「父」は、現実的には母親でもあり得るしその他様々な人でありうるのである。こうして「エスの書き換え」が遂行され、青年はパチンコ玉が入るときのようにスポイルされていくのだろうと思う。しかしそれは「スポイル」というよりも、試行錯誤した末の最適化であることは、「角栄」であれ「ユング」であれ変わるところはない。ある意味で、イエスであれ角栄であれ、あたかもそれが予め定まっていたかのようにそこに志向的に向かっていくが、実際の彼らの内的生としては常に青年と変わらず「暗闇の中の跳躍」である。角栄は角栄であるかぎりにおいて角栄としてスポイルされている、と言っては言い過ぎだろうか。

おわりに

 しかし、このように自己を物語化したところ、実際には当時考えていた相当多くの込み入ったことを無視しているはずである。実際には、そんなに単純な事態ではないはずであり、ある意味で、過度に単純化することによって物語化は成立しており、その社会化された語りとしての物語化によって、人は、愚かになることで安定化しているようなところがあると考えられる。歴史や哲学が往々にして空虚な他人事に映るのも、そうした作用がはたらいているからということは言えるように思う。

2024年3月25日


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