不安と信頼の存在論
「「死後の世界」って未来人が科学技術でつくるんじゃね?」というようなスレッドが2015年の2ちゃんねるに立っているが、案外そうしたことも考えられなくはない。しかしこうしたことを考えるといつも厄介な問題になる。「現実性のフレーム問題」である。
前提として、フレーム問題とは、
というようなものである。これはしばしば人間でも、例えば神経症の場合などに顕著にみられる。もっと言えば、人間は基本的にフレームの枠内で物事を思考している。
一方の「現実性」とは、「世界という現実性」というように、事物世界の実在が不可知ならば、現実とはどこまでいっても「現実性」であるということの表明であり、リアリティと言い換えてもよい。すなわち、一般に「現実」とされている認識はどうしたってリアリティであるということである。
そこで、「現実性のフレーム問題」とは、その現実性のフレームにまつわる諸問題ということである。
神経症、あるいは不安症の典型例として心気症という症状があるが、それは、例えば「この足のあざは自分が白血病であることの証拠ではないか」「呼吸が苦しいが、肺水腫になっているのではないか」などといったおよそ現実的でない恐怖感に苛まれるものである。
観念や信念には確かに領域があるが、実際の身体はそうしたものどもからのトップダウン型の機構では動いていないはずであることは明らかにできると思う。とりあえずここでは、事例で述べれば例えば熱いものに触れた時に脳ではなく脊髄反射で指を引っ込めるような事態が多岐に渡って起きており、事後的に脳に情報が行きさらにその後で脳内でも意識化される、という事態を考えてもらえばよい。だから、人間ははじめからトップダウン型の機構で動いているわけではなく、観念や信念もまたボトムアップで作られているはずなのである。こうした議論は経験論の基本であるが、しかし実際の人間の駆動を見ると、観念が身体を動かしていることも観測される事実である。だから、観念は再帰的に観念を摂取することが多く、これがある種の回路に入り込み信念の補強が慢性化すると固着である。そうしたことからも社会的孤立と神経症は深く関わっているはずなのだが、神谷美恵子さんが『生きがいについて』で語っていた青年の事例もそうした次第のことであると思う。
この場合も、所謂「張り合い」や「生きる意味(ロゴス)」や「生きがい」が問題だったのではなく、人間関係に巻き込まれていることが重要だったのではないかと思えてならない。人間関係に巻き込まれているということは、否応なく固着から引きはがされることをも意味する。
不安症には「闘争か逃走か本能」を司るノルアドレナリンが重要な役割を果たしているのだが、ノルアドレナリンは生存に関わる恐怖学習に関わることから、記憶を固定化させやすくする。だから、自己が自己を聖化することではなく、もっと素朴に「同類」からの孤立が神経症をもたらすと言いうると考えている。付言しておくと、「信念」は固着的な観念連合の一様態である。我々は根拠の根拠があって信念しているわけはないのだから、端的に信念しているのである。ナマの事実とはたんに生々しいリアリティのことである。だから、実際に起こっていることと言えば、時間の切り取りにもよるのだが、たいていは、行為の円環、すなわち循環である。反復は反復し、かろうじて差異化するということである。
ところで「孤独」という問題系があるかのように言われるが、あれは基本的に問題の切り出し方を誤っている。孤独が問題となるのは先述したような社会的孤立であるが、それは現代においてなんとかなりうる。問題は「孤独感」であるが、こちらはたいていの場合安心や希望の欠落からくることが多い。一瞬孤独感が湧いても、安心か希望があれば霧散するものである。深夜の孤独感を想定してもらってもよいが、その場合にせよ安心と希望があればあとは気晴らしとなるものがあれば、現に今執筆している私がそうであるように、何も感情の動揺は起きないのである。こうした自足を古人は、現代でいうところの「マインドフルネス」の方法で、すなわち瞑想で成していたようである。ところで言っておくと、人生は一見すると圧倒的に多様に見えるが、ライフスタイルや人生戦略は類型化でき、類型としては古代より現代に至るまでそんなに多くないということが言える。言ってしまえばたいていの幼児は母の不在で不安を感じるが、内的に不在という現象がなければ当然不安は感じない。前提を述べおくと、孤立に強い人というのはストレス耐性の化け物などではなく(ヒトのストレス耐性は些少なものです)、内的に存在で満たされている人なのである。だから、例えば私も不在で悩まされることは多かったが、今から振り返るとあの問題系は何だったんだという気がしている。神経症の固着の解除プログラムということは精神分析の課題であるが、逆に、個人的な意識による思考の操作のみで容易に経験が動かされてはたまったものではないのである。知識や思考は指針になるが、指針は経験でも無意識でもない。
ところで人生哲学と相性がよいのが認識論ではなく存在論であることに関する持論があるのだが、それは、「存在」が常にすでに充溢しているのに対して、プリミティヴな認識論では、認識には何か対応する知がなければならず、その「X」とでも呼べる何かは常に「構造的空白」を形成する、という次第だからである、というものである。元来神を持たない日本人にとって神の死=神の不在はアクチュアルな問題ではない。だからこそ日本人にとっては母が問題となるのだろうとみている。だから今回のテーゼをここで述べる。不在とは依存の問題であるか隣人への羨望かのいずれかである。その構造を占めているはずの道具がない、という道具の不在も、いかに主体が道具に依存していたのかを告げ知らせるものである。ちなみにこの発想から自己を諸々の道具の中に定位してしまうと外枠から捉えることになってしまい「自己の不在」が浮き彫りになる事態が起きる。すなわち実存的な死の議論である。実際には、我々は内的生のみを生きているのだから、外枠の視点は死の議論において有効ではないので、このさい私の死は問題にしなくてよいのだが、そこで最初に提示したスレッドである。そういう可能性もある。そういう可能性をわずかに残しておいて、一応存在を確保しておくのである。
結局、神の死後の袋小路はここであった。すなわち「沈黙」である。「沈黙」しているということは存在しないということだ、という性急な大衆的速断が時代の現実性を作った。ガリレオ・ガリレイ以降、「父」は神から科学へと徐々に遷移したが、かつて沈黙は存在であった。東洋にも、仏陀の無記や維摩の一黙があるが、その字面ではなく内的経験は何を指し示していたのだろうか。
煽られてきた人間ほど武装してより煽られる人間になることがあまりにも多い。永遠平和とは永久の安らぎのことであり、すなわち楽園表象である。柔弱謙下というのも同じことを言っている。基本的信頼という意味で、信じる者が救われるとは教えていない、むしろ信じられるときには既に救われているのである。自信とは他者への信頼の様態である。
2023年11月19日
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