青年の哲学について

 青年には青年の、壮年には壮年の、老年には老年の哲学がある。老年と呼ばれる歳になっても青年の哲学をやり続ける人はいるが、基本的にはその
段階相応の哲学経験があるものである。
 ここではその中の「青年の哲学」を取り出してみたい。


「青年の哲学」とは何か

 青年の哲学はその勢いが勝負どころであり、青年はそれを抑えない。私が「文豪」という語で表象する3人(芥川、太宰、三島)は、青年の文学であった。



 このような太宰の印象が青年性、或いは青年ウケの基本である。すなわち、彼は「愛されていた」のである。そういえば私の敬愛する教授も、もう間もなく退官で1月ばかり前に最終講義があり、その後立食の懇親会があったのだが、他の出席した教授方が年甲斐のある人たちと話をしている中、その教授はまさに「青年に愛されていた」。青年たちに取り囲まれていたのである。そのことで言えば、これは、前にも評したことがある通り、「西洋哲学」の伝統である。ソクラテスは「青年を堕落させ~」という罪状を着せられたように、青年たちの人気者であったし、ドイツロマン主義の青年性は言うまでもなく、あのハイデガーの講義や『存在と時間』に浮かされたのもドイツの知識人青年たちであった。日本でも全共闘学生が吉本隆明を読んだというような事例があるが、この「インテリ青年のオイディプス」のような感度は、西洋哲学の大きな伝統でさえあり、もしかするとイエスも青年を堕落させ続けている人なのかもしれない。
 これは、家父長的な色彩の濃い、説教臭さの強い東アジアの表の思想とはずいぶんと異なっている。東アジアの表の思想とは言うまでもなく儒学であるが、そのような印象が西洋哲学には伝統的にみられない。西洋の啓蒙思想家に若干、儒学を援用した人物はいるが、基本的な「西洋哲学」で援用される東アジアの思想は、裏の思想、或いは夜、陰の思想である仏教や老荘思想である。ショーペンハウアーやニーチェが仏教を援用していることは知られている通りである。
 青年の哲学の基本は、すなわちその広義の独我性と解放性に力点が置かれる。すなわち「自己が」ということであり、その「自己の非社会的な部分の解放」というところに特徴が見出せる。

 哲学とはフィロ=ソフィアなので工夫して訳せば「知への友愛」となるが、それはやはり「青年の哲学」の基本形である。
 芥川龍之介の短編に『大道寺信輔の半生』というものがあり、主人公はニーチェの『ツァラトゥストラ』に魅せられているようなところのある青年として描かれているのだが、この中の最終章「友だち」の書き出しは、
「信輔は才能の多少を問わずに友だちを作ることは出来なかった。」
である。
「彼の友だちは頭脳を持たなければならなかった」
と書いてあるように、
「彼は天竺の仏のように無数の過去生を通り抜けた。イヴァン・カラマゾフを、ハムレットを、…」
というような感度で「青年」を描いている。
 これがまさに「知への友愛」である。実際に「青年の友」であるためには母性原理と男性原理を付帯していなければならないように思う。先に示した敬愛する教授も、「僕の愛は、母性的でね…」と自認していた。
 その教授は授業で「ニーチェはイエスに嫉妬した」と述べていたが、芥川は『西方の人』で、「ニイチェの叛逆はクリストに対するよりもマリアに対する叛逆だった。」と述べている。よく当たっていると思う。

「青年の哲学」を成功させるために

 青年の哲学は往々にして失敗する。青年の身体の基本的多動が青年の哲学を可能にするが、それがかえって必要な落ち着きを否定する。だから、「動きすぎてはいけない」と言うように、適度に落ち着きを持って臨む必要があるのだ。
 しかし、「青年」期の中にも多様なモードが含まれているので、一概に回答は出せない。但し、言えることとしては、やはり焦りを解除して落ち着いて打ち込めるモードを形成することから始めるということである。

2023年11月25日


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