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僕たちは、いのちの連環体として生きている 〜立花隆のいのちに感謝を捧げる〜

先日、NHKBSで、昨年亡くなった立花隆の特集番組を観た。

たまたま、友人から、今、テレビでピラミッドの特集をやっているからとメッセージが入ったので、
いつもは直ぐに反応しないのに、何となく気になったので、テレビをつけた。

テレビの電子番組表のぎっしりとした中から「立花隆」という名前が目に飛び込できた。

年末の本の整理の時に、立花隆の『脳を鍛える 東大講義』を捨てようと思いながら、『環境、私、宇宙』という章に目が留まり、しばらく読み耽ってしまった。

ここには、何か大切な人間が生きる真理のようなことが書かれている気がして、捨てるのを思い留まったのだった。

それがあって、ピラミッドではなく、既に始まっていた「立花隆」の特集を観ることにした。

立花隆は、政治家の田中角栄研究が有名らしく、ジャーナリストとして盟友の筑紫哲也とともに田中角栄の金脈政治を追求した。
この仕事が角栄を退陣にまで追い込んだことだ。
それで一躍、世間に名を馳せた。

しかし、立花隆の関心は政治に留まらなかった。
ジャーナリストとして生物学、環境問題、経済、医療、宇宙、音楽にまで関心を広げていった。

立花隆が、生涯追い続けていたテーマがこれだ

人間は死んだらどうなるのか
人間とはいかなる存在か

1980年の初頭、立花は、ギリシャ文明とローマ文明とキリスト教文明とが連環する地の古代遺跡を見て回った。
古代の遺跡の前で、じっと眺めていると、そこに千年単位の時間が見えてくると番組の中で語っていた。

その中で、神とは、人間とは、哲学とは、真の歴史ついて思索を巡らし、『エーゲ 永遠回帰の海』という寄稿文にまとめた。なんと完成まで22年をかけている。

立花隆が生涯書いてきた本の中で、この本がもっとも重要であると番組の中で語っている。

それは、生涯追い求めてきたテーマのエッセンス『永遠』の感覚がこの中にあるからなのだろうか。

その他、立花の書いた『宇宙からの帰還』を読み、宇宙飛行士の野口聡一は、高校3年生のときに宇宙飛行士になる決心をしたことは有名な話だ。

更に、日本が世界に誇る音楽家の武満徹に、6年間インタビューを行い、それを18年かけて本にまとめている。

武満徹の音楽の創造性が、どのようして生まれるのか
純粋な好奇心を武満にぶつけながら、武満徹とその創造する世界を徹底して書き尽くした偉業は、相当なものらしい。

音楽に無知な僕が、若い頃、どういうわけかオペラ歌手と知り合い
上野で開かれた武満徹楽曲のコンサートに行ったことがあった。

番組を観た後、思い切って定価4千円の本を1万円で購入した。中古だがプレミアム価格になっていた。なんと781ページもある。それもびっしりと細かいフォントで、これはもう辞書といって良い。
これも立花隆が遺してくれた叡智として、いつか読了したいと思う。

このように、あらゆる分野を子供のような好奇心のままに探求しながら、『人間とはいかなる存在か』を探っていった。

立花隆のことを、『知の巨人』というが、それは彼の本を読んでいない人だと、番組内で文藝春秋の元社長で立花の編集者が語っていた。

何かを得ようとか、利己的な目的のために知識を得たり、本を書くことは、一切ないというのだ。
がんの研究をしている最中に自身ががんに冒された。しかし自分の治療は放っておいて、がん細胞そのものの研究に明け暮れたという。
ただ、子供のような純粋な好奇心がそこにあるだけだったという。

好奇心のまま、読み尽くされた蔵書は10万冊〜20万冊とも言われる。
蔵書を保管するための、通称「猫ビル」を建て、本の中で暮らしていた。

そして、立花隆の探求は、『人間は死んだらどうなるのか』に及ぶ

何百人もの臨死体験者にインタビューし、この分野の世界的権威の科学者にも会いに行く。

しかしながら、何百の臨死体験を分析しても、人間が死んだらどうなるか!この問いに対する普遍的な答えは得られない。

同じように、末期ガンとなりホスピスで死に往く人たちにもインタビューを続けた。

あるテレビ番組の中で、インタビューをしていたご婦人が、前日に亡くなったことを思い出し、声を詰まらせる立花隆の姿があった。

死後の人間の世界について、科学的に実証的に追い求めてきた立花が、一人の人間の死に接して、何を感じていたのだろうか。。

また、ガン細胞の中に、人間の生命の秘密があると直感しながら、これも徹底てして研究していく。自分もガン細胞に冒されながら自分の治療は放置して、純粋にガン細胞の神秘を追い続ける。

その最中に、盟友の筑紫哲也がガンで亡くなる訃報を聞き、立花隆が大粒の涙を流しているシーンは、感動的であった。

このシーンにこそ、「人間とは何ものか」が現れていた。

続けてホスピスで死に往く人のインタビューを行う。

あるご婦人が、死を前にして、最後に伝えたいことを立花隆に語った。

私は、学もない無学な人間です。そんな私が、ここまで生きてこられました。最期に周囲の人に感謝をいいたい。ただそれだけです。

このインタビューを境に立花隆が変わってしまった。と番組で紹介された。

自分が死んだら、10万冊の蔵書を全て廃棄して、自分の死体もゴミのように捨てて欲しい。というのだ。

一方で、ホスピスで最期に遺す言葉を語ったご婦人を受けて、立花はこんなメッセージを発した。

人間は、死を自覚した途端に、その運命を乗り越えることができるのではないか。
自分は、弱い人間だけれども、周囲に支えられて、こうしてここまで生きてくることができた。
それは、その周囲の人に対して、最期に「ありがとう」のひと言をいいたいという言葉に表されている。
人間の限りある”いのち”は、単独であるのではなく、いくつもの限りある”いのち”に支えられて、限りある時間を過ごしていく。
それは、周囲に支えられて存在するという意味において、『いのち連環体』という大きな輪っかの一部であるとも言える。
そういう連環体が連なって、大いなる『いのち連続体』を成している。

立花隆は、『人間とはいかなる存在か、人間は死んだらどうなるのか』これについて、普遍的なエビデンスを見つけることは出来なかった。

しかしながら、立花隆は、生涯をかけて、その純粋な好奇心と類稀な知力と体力により、「人間とは、いのちとは何かを」追い続ける姿を我々に見せてくれた。

そこに、我々は、人間の中にあるいのちの輝き、計ることのできない、素晴らしい豊かさがあることを感じることが出来た。

おんなじいのちの連環体・連続体として、立花隆の偉大な人生に心から敬意と感謝を捧げます。



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