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二分化した芸術 【終結】

芸術は往々にしてアッチとコッチの二つに分かれていることを「二分化した芸術」と謳った。あれが去年の暮れだった。以降いろいろあって、もう一度このテーマを再考、アップデートしようかと思っている。前回の納得度は40%くらいだったが、今回はそれ以上になりそうだ。

つまり「狂気」に気付いたからだ。

狂気は芸術と非常に近しい距離を保っている。狂気無くしては芸術と呼べず、アッチのアートになってしまう。

あれ?

アッチのアートのことを私、芸術と呼んでいない。

いや、そんなこともないはずだ。。

もう少し整理してみよう。

しかしアッチのアートは一見感じが良くグッとくるが、非常に、後でストレスに感じてしまうことが分かった。つまり自分でしておいて、胸糞が悪くなるのだ。グッときているはずなのに暴飲暴食をしたくなったり、確かにあの時グッときていたし考えるとグッとくるのに、馬鹿げた音楽やとてつもなくうるさい音楽、酒、ドラッグ、ギャンブル、異常性愛、自虐性性行動、パーティーやサブカルチャーに走ろうとしたり。あれ?グッと来ているって、何者????嘘ものか!!!この野郎!!!!!!

しかし嘘ものというか、おおお!とグッとくる感覚、グッとくる感覚で何倍でもご飯食べられそうな感覚でアウトプットしているのにも関わらず、上記狂気行動へ移るのは、それはもはやグッとくる感覚だけでは精神が崩壊してしまうという逆説でもないパターンがある。

ではコッチの芸術と比較するとご覧の通り。コッチの芸術は腹の第二の脳でシグナル化されている。コッチで制作したものは制作途中で振り返って確認することはほとんどないのもそうだが、完成した瞬間、なぜか「泣ける」のである。べつにグッと来ているわけではない。まったく「いい」とすら思っていない。ただ単に、「尊い」気持ちになっているだけなのだ。はあああ...!という気持ちというか、一種の一筋の光を感じているというか。はああああああ.....!芸術できたあああああ!!!!!!ていう気持ちだな。しかもそれは表現のなかだけで狂気行動をするので近くにいる人は殺されてしまうかも知れない。殺気立っていて、眼光が非常に鋭く、相手がキャンバスであれば殴りまくっている。ペインティングナイフを持っていたらキャンバスを痛めつけすぎて制御できない自分の手がおもむろに自分の目を間違えて当たって傷付けてしまうかも知れない。手は傷だらけになり、血が滲んだアトリエはでハアハア言いながら恍惚としている。相手がピアノであれば狂ったように弾き、鍵盤の上に思いっきり乗り、踏んづけ、ギャンギャン言わせて近くにいる人はその耳を劈くような激しい音のヴォリュームに退散を余儀なくされてしまう。パンキッシュな出来事だ。


やっぱり!

やっぱり!芸術はグッとくるべきではない。のだ。

あ、もしかして今日、100%になっちゃうかも!!!!!!!

死ぬまで分からない問いだと思っていたのに、今日もう分かっちゃったカモ。

うう〜ん..。ではやはり二分化した芸術とは謳えないじゃないか......。うう....んん....言いたい......二分化した芸術って言いたい............

これじゃあ岡本太郎と一緒じゃないか。

では、「芸術」という一つの言葉が、世の中の多くのこのコッチとアッチの概念に気が付いていないで造作された言葉なので、「芸術」と言うならば「二分化した芸術」と言いたいし、アッチがやはり芸術ではないなら、アッチに対して芸術という言葉で形容する必要はもはや無いはずで、それならば造語を作らなくてはならない必要がある。だからスッキリしないのだ。100%になったわけではない。古来から人は創出したもののことをアート(芸術)と呼んでしまっている。だって辞典にアッチとコッチのことは書いていないじゃないか。芸術って言われてもさあ、翻って創ったものは全部芸術だよねえ、というアッチもコッチも全部芸術ってことになってるから語弊や違和感を言葉に出せずみんなアッチとコッチを行き来したりアッチしかしていなくてコッチみたいな狂気を味見してみたり狂気行動に走ったりするんだ。じゃあもうしょうがないね。造語を作るつもりなんてないから、芸術という名前は気に入っていなくもないから95%の納得と、芸術っていう辞書的な意味への違和感を5%だけ残して、この「二分化した芸術」は一旦幕を閉じる!


(2020.2.5 ,後藤てるみ, 現代美術研究所湘南支部にてこれからまたつーちゃんが授業に来る前に)


追記:だけど人は優しい音楽に救われるようにグッとくる感じを大事にしながら、少しずつの狂気と共に美しく生きる動物なのかも知れない。それに狂気は愛情のすぐ隣にある。