『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 20: 幕府納魚の建継事件

前回は魚の上納をめぐる厳しい取り締まりや魚を隠すなどの駆け引きについて見ました。

これに疲れた問屋は、文化十一年(1814年)、本小田原町の町奉行所に「建継肴役所」の設置を願い出ます。

一 文化十一甲戌年七月納肴取扱の為め肴役所構内へ組々行事誥合所を修理し組合行事日々出勤納魚の取扱を為す文化十三子年九月に至り終に紜(乱れるの意)議を生し依て之を廃す(此紛議を後年建継事件と云)

日本橋魚市場沿革紀要

「建継肴役所」は納屋役所(肴役所)と問屋との中間緩衝機関のようなものです。そこでは魚の区別なく一律に「除(の)ヶ銭」として、仕入れ金額の1/100を積み立てて、幕府に納める魚の一切をこの建継肴役所で調達することになりました。幕府から支払われる金額が魚価に達しない場合は、その不足分を補うという寸法です。

しかし、この運用が始まった後も建継肴役所を取り仕切る行事は上下をつけて役人気取りで問屋にも見下した態度をとるわ、問屋側も運用への不信から積み立て金額を減らすわでうまくいかず、次第に建継肴役所と問屋との間の対立が深まっていきました。

そうして、一部の魚問屋商人が文化十二年に建継肴役所に包丁を振りかざして斬り込みをかける事態となり、文化十三年には建継肴役所も廃止されることになりました。この一連の紛議は「建継事件」と呼ばれるようになるのでした。

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