復讐の無力さ
憎しみとは恐ろしいもので、冷静な思考を奪ってしまいます。
そのものを倒すためなら自分がどれだけ不幸になっても構わないとさえ考えてしまい、合理性というものからかなり遠ざかった思考になるようです。
わたしもこういう力があるものですから、対象の人物を呪い殺して欲しいと懇願されたことも一度や二度ではありません。
そういう時は、何度か問答をすると相手は改心するものです。
どんなに自分が不幸になっても良いのですね。
殺しても足りないくらい憎いのですね。
生かした状態でこらしめることだってできるのですよ。
そんな問答をしているうちに依頼は取り下げられるのです。
しかし、日本には古くから呪術は伝わっています。
メジャーな話では人形に釘を打つとか泥人形を焼くとかそういうものは皆さまもご存知だと思います。
たとえば、鬼道であれば、悪呪を成仏させてあげ、開運を目指すのが本来の使い方です。
こういう根本的なマインドを確立せずに見えない力を使おうといないことです。
もちろん真似事とて同じです。
落書きなどで、その人を呪うような文言を書いているケースも散見されますが、気の圧力の低いような人には間違いなく悪影響を及ぼしています。
幼稚ないたずらというものではすまされず、自分自身にも跳ね返ってきているでしょう。
相手の悪業を成仏させること、自分の開運や自分の成仏のためというそのマインドをきちんと確立した上であれば、釘を打ち込んだりといった行為も意味をなすでしょう。
いたずらで軽々行うものではなく、跳ね返りにも耐えうるような精神鍛錬を経て、力とは身につくものです。
何か見えない力を用いてやってみたいというのも軽々しくせずきちんとした精神性を身につけた上でやらなければならないということです。
単なるノウハウだけでは自分が傷ついていくだけです。
精神性の向上や精神の鍛錬など付随する多くのことをやっていく必要がありますよ。
これからも良い記事を書いていきます。