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マルチリンガル僧霊仙

空海や最澄と共に霊仙も唐に渡りました。

霊仙は留学しにきたのだから、とにかく学問を研鑽しようと努力しました。
経典を翻訳するためにもサンスクリット語や漢文の習得を目的にしていたのです。

修行場所が醴泉寺となり、カシミールの高僧だった般若三蔵からサンスクリット語を6年学ぶことができました。

そこから引き寄せが始まりました。
150年ほど前にスリランカから献上された梵夾が見つかったのです。
木の葉を短冊形に切り、彫ったところに墨を入れた経典のことですが、この見つかった梵夾は大乗本生心地観経であり、僧の倫理を説いたものです。

皇帝の憲宗はこの翻訳を国家事業として位置付け、翻訳チームを編成しました。

これは大変な作業で、サンスクリット語を音として漢文にし、漢文を中国語に翻訳するという難しいものです。
しかも、般若三蔵は30年も唐にいたにも関わらず、漢語が分かりませんでした。
長安の中で仏教の知識が豊富で、サンスクリット語と漢語の両方が分かる人というのは希少でした。
霊仙はその希少さから編成チームに選ばれました。
しかも、途中で般若三蔵はカシミールに行ってしまうので、事実上の翻訳プロジェクトの責任者は霊仙がやっていたのです。

苦労を乗り越え翻訳に成功したのでした。

多くの叡智が伝わるまでに、多くの苦労が伴ってきました。
国家が動くレベルの知識をオカルトで片付けて良いものでしょうか。
見えない世界について隠したい人々がいるのでしょうが、そんな独占はさせたくありません。
興味のある方は一緒に頑張りましょう。


これからも良い記事を書いていきます。