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独白

自分は今まで結構うまく生きてきた気がしていたんだけれど、全然そんな事は無くて、ずっと病んでいたんだと自覚した話についての独り言。

僕の家庭は恐らく一般的な家庭とは違っていた。
「目に見えないこと」についてを家族間でよく話し合う。
議題が上がり話し合う時間を設けるようなことではなく、
ごくごく自然に食事をしているときに例えば、

「本当の意味でやさしい人は恐らく傷ついた事がある人だと思うんだけど、でも悲惨な事を起こす人も傷ついた事がある人だと思うんだ。この枝分かれには何があるんだろうって最近思うんだよね。」

と僕が話すと、母親も姉も流すことなく、ごまかすことなく、一緒に考えてくれるような。
そこに重さは無く、気遣いもなく。
こういった会話の内容を、絡まった糸を出来るだけきれいに解くような繊細な触れ方を各々がしながら話合うことが出来る。
僕は世界の仕組みが気になっていて、なぜ人はこうして生まれていて、形成していて、続いていて、現象があって、耐えて、分かれて、ただそこにあるのかが、ずっとそんなことを考えていた。

姉はとてもやさしい人で、兄弟と母親との間にずっといてくれていて。
母親はとても人格者で、僕のやる事を応援してくれて、疑問や不安をちゃんと包んでくれて、面倒くさい顔一つせず最後まで聞いてくれる。

そして僕には兄がいて。

兄はなんというか、人が見ないところを見るような人だった。(過去形の意味は後にわかる)
たくさん小説を読み、考えもしないようなことを考え、そして言葉にできる人だった。アニメや漫画からたくさんの意味を見つけて、人が気づけない面白さを見つけることが出来る人だった。

そしてどこかそんな会話を小学生、中学生としている間に、どこか強制的に周りよりも階段を上ってしまった感覚がずっと付きまとっていた。

昨日見たテレビの話題、最近読んだ漫画の話をしている時に、僕の意識はその時の「現象」を俯瞰で見ていた。

この箱の中の三十数人の人間が、それぞれまたグループを作って別れている。
あの子は昨日Bちゃんの事をうざいと言っていたのに、なぜいまあんなに笑顔で話しているんだろう。
あの子は前まであっちのグループにいたのに、最近はこっちのグループにいるな。
そんなことを、ずっと。
その理屈がわからないんじゃない。それがその場のしのぎあいだということはわかっている。
ただ、もっと根幹的なこと。世界と人について。

もちろん自分もアニメや漫画は大好きでその話はできる。
ただ自分が何かを面白いと思うのは、展開や設定ではなく、その余白にある因果なのだ。
この2人は現実のなにを象徴しているのか、なんのメタファーなのか、そんなこと。

同学年の人たちとの会話のズレ。角度のズレ。考えないような事を考えている自分を、
馴染むために考えていない様な振りをして、みんなと同じ会話をするようにしていた。

誰と話すときにも調整をしながら話していた。
調整には2つあって、
知らないことを知っているふりをする調整と、
知っていることを知らないふりをする調整。

僕は圧倒的に後者ばかりをするしかなくて。

これは誤解を生まないように言っておきたいけれど、周りの人間を下に見ているという事ではなくて。

自分の環境により、周りの人よりも早くたくさんの知識を、思考する力と、見ている景色が変わってしまった自分は、
「人と自然に会話が出来なくなってしまった」
という事。
この人がどんな人なのかがなんとなくわかってしまって、
こんな事を言ってほしそうだな、
ここは共感しよう、
声のトーンはこれぐらいで、
話すスピードはこのぐらいで、と。

そんな自分はいつからか誰と話すときにも、その人に合った仮面をつけて話すようになっていた。
人によって仮面を使い分けていた自分は、たくさん話すようになると仮面だと意識はしなくなり、これが本当の自分なんだと自分で錯覚して話していて。
でも同じクラスだった人とクラス替えをして合う頻度が一週間でも減ると、
もうその人と話せなくなっていた。つけていた仮面がどれだったかがわからないのだ。
廊下で元同じクラスだった人とすれ違うと、どんな感じで話していたのかがわからなくなってしまう。
卒業をして久々にクラス会が開かれるというときに、どんな風な顔を自分はしていたのか、何を話していたのかがわからなくなり行けたことはなかった。

成人式はもちろん、あの頃の仮面を忘れた自分は行けなかった。

こんな誰しもがありそうな事を「仮面」と例えて今話している自分も、あまりにも達観していて気持ち悪いなと思う。

僕は比較的人に好かれるけれど、それはその人に好かれる自分がわかるからで、
でも時間が空くともうその自分の仮面の場所がわからずにうまく話せない。

きっと周りの人からしたらすごく不思議だと思う。
前まで話していた人が急に距離を取るようになるんだから。

怖いよなあ。

と、そんな自分に昨日気づいてしまって。
誰一人ともリラックスして話せたことがない自分に。

孤独に気づいた。

ふと考えてみたことがあって、
例えば気が付くと山の深い森の中にいて、携帯1つを持っている。
街に降りるためにはこのラインの中の誰かに連絡を取らなければならないという状況になったときに、
自分はそのまま森の中に進んでいくことを選んじゃいそうだなあ、と。

気付いた孤独に、平気な自分が、それもまた恐ろしくて。

でもなんでこうなってしまったんだろう、と考えたときに、兄の事が浮かんだ。


こうなる前の中学生以前の自分は兄の事を世界で一番尊敬していた。
兄が良いと言ったものを見て、兄が良くないと言ったものは見なかった。
絶対的だった兄の事が大好きで、そしてどこか自分を無くしていっていたんだと、今振り返れば思う。

そんな兄が当時中学生だった自分と、ある日突然口を利かなくなり、自分の部屋から出てこなくなった。
あの部屋の扉が閉まっている光景はいまでも強く思い出せるほどに残っていて。

あんなに部屋でたくさんふざけて、一緒に漫画について話合い、映画も一緒に見に行ったのに、突然。

そうしてある時、なにも話せないまま兄は家を出ていった。

誰よりもやさしく、そして繊細で思考が深い兄は、おそらく学校になじめていなかったことはなんとなく感じていて。
かたや自分は生徒会をしていたり、友達と泊りに行ったりしていたりして。

これは今だから考えていることだけれど恐らく当時、
「兄が学校で馴染めない人種に僕がなっていっていて、そんな世界が違う自分に尊敬されているのがどんどん怖くなっていった」
のかと思う。

かたや自分は兄に心酔し自分を無くしていて、
「尊敬は理解から最もかけ離れている感情」なんだと気づいてしまった。


この出来事に関して自分の中でどこかずっと蓋を閉じていて、平気なように振る舞っていた。

そしていまも兄にそのまま会えていない。もう7年ぐらい会えていない。顔も忘れて、声も思い出せなくて、だけど大好きだったっていう事だけ確かに残っている。

あぁ、これが自分のトラウマか、と。

全然意識していないけれど、こんな風にならないために人の事を観察して、考えて、好かれるようになり、そしてそんな自分が分からなくなりまた話せなくなる。
ある程度の距離以上の仲になることをどこかで避けていて、孤独になろうとしてるんじゃないかなと。

そうして毎日夜散歩に出かけて、なぜかわからない胸のどきどきを抑えるために歩くのは、独りになろうとしている事なのかなと。

なんだ、自分はずっとこれがトラウマで、病んでいるんだ!
と自覚をした。
なにかこう、友達はどんどん減っていき誰にも話せないことが増えていくこれは、自分はずっと兄の事を引きずっているんだな、と思った。


兄の事をなしにしても自分は世間の人とずーっと気を使いながら話していて。
多分それは相手にはばれていなくて、その時は笑えていてめっちゃ楽しそうに見えていて。
でも本当に話したい事、熱量、テンションで話せたことはもう10年ぐらい無い。

この孤独は病気な様なものだと思った。
治ることはなく、ずっと付き合っていくもの。

同じような人は世界にたくさんいるはずなのに、こういう人同士はなぜか出会わないように出来ている不思議。あぁ世界。


でもおそらくこの孤独は創作に向いていて。人の見えないところが見えて、世界の物陰に隠れている宝石を見つけられる。


例えば宮崎駿や庵野秀明という人自体は誰にも理解されていないけれど、
彼らが作るアニメーションは世界中の人々に理解されている。

彼らは作品を通して世界とつながることが出来ている。
彼らは孤独な天才だと思う。

面倒くさく、生きづらく、孤独な自分も、やはり何かを成し遂げたいな。
自覚しちゃったからこそ、世界とつながりたいな。

ただ孤独な人では無く、孤独な天才になりたいな。

そうして世界とつながった姿を、決して出会わない孤独な人に見せたいな。



2021/7/16 22歳時点での自分の考え

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