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出会い・・・そして別れ

コミュニケーションアドバイザー&コーチに到るまでの
マイストーリーの続きです。
今日は3話目。
長くなってしまいますが、全てが今に繋がっているので
もう少し書き続けたいと思います。


<出会い>

大学受験にしくじって希望の大学には行けなかったものの、
学科主任の先生のことばで目が覚めて、
充実した学生生活を送っていた4年生の春。
のちに夫となる彼と運命的な出会いをしました。

彼はプロ野球選手だったのですが、
その時私は彼の事を全く知りませんでした。

出会ったのは広島市内のホテルの宴会場。
ある選手の受賞記念パーティーが行われていて、
私はアルバイトでその宴会に入っていました。

本当は入る予定ではなかったのに、
アルバイトの人数が足りないとのことで急遽呼び出され、
仕方なく入ったのでした。

その宴会にゲストで出席していたのが
のちに夫となる広島カープの津田恒美だったのです。

あとでわかったのですが、
夫も最初は出席する予定ではなかったのだそうです。
出席予定だった他の選手に急用ができてしまったため
代わりに出席していたのでした。

お互い、予定外でその場に居合わせたという・・
なんとも不思議な導きで出会ったのでした。

大学卒業した年に結婚。
翌年には長男が生まれました。

夫がプロ野球選手ということで、大変なこともたくさんありましたが、
それでも幸せな日々でした。


<忍び寄るかげ>

ところが、結婚4年目に夫が頻繁に体の不調を訴えるようになりました。
すぐ風邪を引くし、「頭が痛い」「頭が重い」「体がだるい」とか、、
「脚がだるい」などとよく訴えるようになっていました。

その年は肩の故障、腰痛、膝の故障、と続いて、
シーズン通して、2軍での生活となってしまいました。

夫は抑えの投手という精神的にもプレッシャーのかかる
ポジションにいましたから、疲れが溜まってきているのかなあ、
ぐらいにしか当時は思っていませんでした。

針、整体、電気、超音波、温泉治療、気功・・・
いろんなところに治療にいき、
幸い肩、腰、膝の痛みは良くなっていったのですが、
頭痛だけは相変わらず続いていました。

でもまだその頃は薬を飲むと治る程度だったので、
それほど深刻な病気であるとは思いもよりませんでした。

翌年の春のキャンプ。
薬で痛みを抑えながらトレーニングをする日々。
夜、電話をかけてきては
「体が重い。思うように動かない。年のせいかなあ」
などと訴えていました。

でもそんなこと監督やコーチには言えません。
一軍で使ってもらえなくなることを恐れて、
体の調子が悪いことは隠し通していました。
知っていたのは仲のよかった2〜3人の選手だけだった
と思います。

テレビや新聞でカープのキャンプレポートがあると、
元気にトレーニングをしている様子が映っていて、
「津田好調」なんて報道されてましたけど、
実のところはとてもきつい状態だったのです。


でも、シーズンが始まる頃には、もう薬では
抑えきれないくらい頭痛がひどくなっていました。

そして、シーズンが始まって1回目の当番。
ゲーム終盤に登場するも抑えに失敗。
でも、その時のボールのスピードは150キロ近く出ていました。

2回目の当番は広島市民球場での巨人戦。
その日は朝からもう起き上がるのもやっと、
というくらい頭痛が酷くなっていました。

もうただ事じゃないということは、素人目にも明らかでした。
「病院行ったほうがいいよ」
「今日は行くのやめたほうがいい」
と訴えましたが、夫は「このくらいで休んでられない」と言って、
球場に向かいました。

「どうか今日は出番がありませんように」
その願いは届かず、8回に夫がマウンドに。
夫の表情は辛そうで、とても集中できている
状態ではありませんでした。

やはり1アウトも取れずに降板。
それが最後のマウンドとなってしまいました。

<闘病・・・そして別れ>

翌日には目を開けるのも辛いほど、
頭痛はさらに酷くなっていました。
病院でCTを撮ったところ、
脳腫瘍があることがわかり、入院。
そして闘病が始まりました。


腫瘍はすでに卵くらいの大きさになっていて、
しかも当時は手術で取り除くことができない
とても難しい位置にできていました。

主治医の先生に言われました。

「こんな状態でよくマウンドに立ってましたね。
普通だったら、もう歩くことすら困難。
寝たきりの状態になっていてもおかしくないほどです」と。

気力でマウンドに立ち続けていたんだと思います。
余命半年。持って2年と言われました。

一度は回復に向かいかけたものの
2年3ヶ月後、旅立ってしまいました。


我慢強さがあだになりました。
プロの選手たちはみんな我慢強いんです。
体調管理は自己責任ですから、
ちょっとやそっとの体調不良では休まないんです。

シーズン中に一軍登録選手が体調管理の不備で
試合を休んだら、罰金です。
でも、罰金よりも選手にとって痛いのは、
ライバルにポジションを取られてしまうかもしれない
という不安です。

みんな一軍の試合に出たい。出番が欲しい。
休んでる間に自分のポジションがなくなってしまうかもしれない。

そんな恐怖から、多少の痛みとか体調不良とかは
コーチにも監督にもチームメートにも
隠して頑張ってしまうんですね。

痛みを我慢して試合に出続けて、オフに病院にいったら
骨折してたっていう話も珍しくなかった時代です。

プロ野球に限らず、日本のスポーツ界全体が
そんな感じではなかったかと思います。
いや、もっと言えば、日本全体だったかもしれません。

サラリーマンが「企業戦士」と呼ばれた時代です。
「24時間戦えますか?」なんてキャッチコピーの
ドリンク剤が流行った時代です。

体調不良なんかで仕事休むな。
疲れたなんていうな。
そんなこと言ってたらライバルに置いていかれるぞ。
日本全体がそんな雰囲気でした。

頑張ることや我慢することが美徳とされた時代。

でも、せめて妻である私だけはもっ早く重大な病気で
あることに気がつくべきだったと、
あとでなんども後悔しました。

あんなに元気で、体鍛えてて、病気とは無縁そうに見えますよね。
だから油断していたんです。
「まさか夫が」と。

でも、今ならわかります。
医療の勉強をした今なら、
激しい運動をしたら免疫力が落ちやすいと。
スポーツ選手は、意外と病気になりやすいんだ
ということも。


今でも体調のことを正直に話さない
痛みを我慢して練習し続ける、試合に出続ける
という風潮はスポーツ界に根強く残っています。

一般社会でも同じようなところがまだ多いかもしれませんね。

だけど、その結果、蓋を開けてみたら
体調不良や故障の選手だらけ
疲れた社員だらけ
そして病気になる
精神的に限界がくる
社員がやめる
パフォーマンスが下がる
業績は伸びない・・・
という悪循環を招きかねません。


私は今、この悪循環をつくらいにために、
チーム内のコミュニケーションをどのようにとったら
全体のパフォーマンスが上がるのか、
チーム内の関係性の質をあげるには
どのようにしたらいいのか
といった方法をスポーツ指導者や
会社のリーダーにアドバイスする仕事をしています。


夫との闘病の記録は著書「最後のストライク」に書いています。
夫の人柄を感じてもらえたら嬉しいです。
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夫はチームメイトや友人に恵まれていました。
生前、いい信頼関係を作っていてくれていたおかげで、
闘病中も、その後も、私たち親子は随分
夫のチームメイトや友人に助けられました。

そして多くのファンの方々にも応援していただき
心から感謝しています。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


マイストーリー④に
続きます。


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