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遊びの環境

堅苦しいタイトルになりますが…。

 保育士は遊びを通して、子どもの教育を担います。また、養護も遊びを抜きにしては語れません。専門的な言葉でいえば、【教育と養護が一体となった云々…】というフレーズがありますが、そちらの一体化を目指すのであれば、遊びはとても大切な手段となります。
遊びは生活の中の一つのフレーズです。そして子どもにとっては水分補給と同じくらい必要なものになります。子どもからは遊びを奪うことができません。子どもは遊びます。遊べない状況にある子どもは何らかの背景を疑われるほどに、子どもは必然として遊びます。視線を泳がせているだけであっても、それはもしかしたら、その子どもの遊びとなっている可能性すらあります。遊びは、遊びだから遊びです。遊びを観察しているものから見て、主観を伴いますが、遊びだと思えば、それは『遊び』となるのです。また遊んでいる本人が「遊んでいる!」と言えば、それは遊びです。遊びが遊びであることが子どもの成長を助け、子どもはますます遊びの世界に傾倒していきます。むしろそれは好ましいことです。遊びから子どもを遠ざけることはできません。むしろそれは嫌悪されます。子どもから遊びを遠ざけること、子どもに向けて遊びの価値を下げる発言を投げつけることは、厳に慎まねばなりません。子どもはときに自分のすべてを遊びの中に表現していることがあるからです。子どもは否定されると心が乾きます。追い打ちをかけられると心が割れます。心が割れると、感受性が鈍ります、心が大切です、どう感じているかが大切です。遊びを守ることは心を守ることにつながります。そういった意味でも遊びは重要です。
 さて、本題に入ります。遊びの環境についてです。遊びの環境という言い回しも過分に専門的です。遊びと環境、噛み砕きますと、遊びに必要な、空間、道具、気温、気候、光、風向き、すなわちそれらの環境のことです。こちらの環境という単語には、人間も含まれます。専門用語で、人的環境とも言います。大別すると、物的環境と人的環境と、あると思います。物的環境の代表は、おもちゃ、ですね。そして、そのおもちゃを使う空間です。または、大型遊具、すべり台の類です、すべり台がとても狭い場所に設置されていたとしたらどうでしょう。危険ですね、だからすべり台は開放的な場所に設置されます。公園や園庭などです。環境には安全がセットになっていることも前提です。安全な環境、遊びやすい環境、楽しそうな環境、守られている環境、少しばかりスリリングな環境、冒険的な環境、遊びの環境とはそれらすべてのことです。そして、保育士は、それらの環境を計画します。デザインしプランニングします。意図的に環境を設定し、子どもたちに新しい世界を提案することがあります。また、偶発的に発現した環境を、子どもたちと一緒に喜ぶこともあります。環境は、必然からも偶然からも生まれます。環境は流動的です。一瞬でも寸分違わない環境があるでしょうか、いや、ありません。環境は変化します。常に変化しています。そして、それらの事象は、遊びの変化も意味します。遊びと環境は相互に関係しながら、変化し続けます。
 それらの変化のダイナミズムの中に子どもの遊びはあります。堅苦しいことを書き続けましたが、お付き合いください、変化することが前提とありながら、今回お伝えしたいのは、遊びやすい環境についてです。ここまでお読みになった方にはご理解いただけると思いますが、遊びと環境は切り離せません。もはや、遊び、が、発現したならば、そこにはすでに、環境、も存在する、といった表現でよいでしょう。環境は遊びの要素に含まれます。そして、この世界に良し悪しがあるように、こちらの遊びの環境という概念にも、良し悪しがあります。
 ネガティブな思考は伝播しやすいので後ろ向きな考えから始めてみましょう。イメージしてください、ある子どもがいます。その子どもは健康です。その子どもがこれから遊ぼうとしている場面です。その場面には、時間があまりありません。おもちゃも見当たりません。空間は狭く、息苦しい。窓もなく、光は差し込まず、風も感じられません。常に大きな音がします、不快な甲高い音です。そして不規則に振動が襲います。床はベタベタし、ときに滑ります。天井からは何かが滴り落ちてくるのですが、それが何かは定かではありません。さて、いかがでしょうか、こういった環境下ではたして子どもは遊べるでしょうか。私ははっきりと、遊べない、と申します。反応は存在する余地があります。驚くことでその子どもは反応しますが、それらの刺激への反応を、遊びと呼ぶにはあまりに乱暴な気がします。言いたいことが伝わっているという心象からお伝えするのですが、つまりはこれらの逆の環境を目指せばよいわけです。
 その子どもが健康で落ち着いていて、とりわけ遊びを阻害する弊害を抱えていないとします。前述した環境と反対の環境がそこにあるとします。そういった環境が用意されているとしたら、その子どもはどうすると思いますか?回りくどい説明はいらないですね、自然と遊び出します。自然とです。命令も指示も、抑圧も我慢も、促しも誘いも要りません。自然と遊び出します。これはほぼ間違いないです。子どもはそれくらい遊びとの親和性の高いものであり、そういった時代を生きています。明るく朗らかで守られている空間において、子どもから遊びを奪うことはできません。子どもは遊ぶのです。環境が整っていれば。そして時に、遊ぶために環境を構築していくことすらあります。子どもは遊べる場所を探し、見つけると、集中します。集中は、子どもの脳に影響します。それは大体において良好な反応です。良質な刺激です。子どもは喜びます。脳で処理された様々は、子どもに、喜びの作用を伝えます。その作用は次の遊びへの呼び水となります。喜びがあるから遊ぶのです。遊ぶから喜ぶのです。そしてそれらを無限に繰り返す!これが遊びの本質です。
 子どもが遊びやすい環境を用意することです。手の届く場所にお気に入りのおもちゃを置きましょう。または、少しむずかしいおもちゃにも興味を持てるように、いつでも出せるところに置いてあげましょう。大人との協力において、自分の万能感を養っていけるように、環境を用意していきます。万能感とは、優越感や優性思想とは距離を置きます。チャレンジや挑戦、達成感と親しみ、すなわち万能感は内的にその子どもを励まします。誰かに手伝ってもらうことは、必要であり、むしろ選択すべき方法であると思います。この世界に全くの一人だけで生きていける人間は存在しません。(空気を食べるとしてもその空気すら樹木のおかげで発生しています)私たち人間は、誰かや何かとつながっていないと生きていけません。手伝ってもらうことは、その子どもの自己達成感、自己効力感、そして万能感を高めます。環境に働きかける手段を数多く持っていることは、その子どもの助けとなります。そして、その子どもは自分自身を助ける術すら学び、さらに遊びます。環境が整うことで、またはだんだんと整っていくことで、子どもは自分自身を成長させる遊びをますます深めることができるのです。
 ここまで遊びと環境との切っても切れない間柄について書いてきました。自然がいっぱいの小道を歩くように書いてきたので、枝葉が多くなっています。刈り込んで、こちらのテーマをまとめたいと思います。
 以下に、子どもにとって遊びやすいであろう環境を、私の主観において書きます。頭の片隅に置いてくだされば嬉しいです。


 心地よい空間を用意してください。遊ぶためのたっぷりとした時間と、手足を十分に伸ばせて、動きやすい気温と湿度を準備しましょう。例えば家事に追われてそういった時間を用意しにくいのであれば、何かを諦めるのも一つの手段です。晩ごはんは前向きに手を抜く、おかずは一品だけにする、あえてふりかけだけで食べる、今どきのふりかけコーナーは食のエンターテイメントです、楽しいですよ。帰り道でコンビニに寄ってもいいですね。スーパーの惣菜コーナーには美味しそうなものが溢れています。家計と自分の気持と相談しながら、前向きに手を抜きます。本当に必要なものは実はものすごく近くにあるかも知れません。
 その子どもの趣味に沿ったおもちゃを用意してください。保育園では、例えば、いろいろな性格の子ども、そして趣味が多彩ですので、多種多様なおもちゃがあります。積み木が好きな子ども、ブロックが好きな子ども、人形が好きな子ども、車が好きな子ども、保育園にはありませんが、テレビゲームが好きな子どももいるでしょう。おもちゃは、遊びの友達です。おもちゃが無くても遊びは始まりますが、知らないうちに何かがおもちゃになっているということは自明のことです。木の枝が釣り竿や剣になりごっこ遊びのおもちゃとなり、その子の体自体が飛行機になり空を飛ぶイメージの具体物となります。どういったおもちゃがいいのか、判断に困る場合は、人形、車、ボール、布、積み木、これら5種類のうちのどれかから始めると空振りが無いと思います。人形は抱かれます、車は走らせます、ボールは投げるし蹴るし、布はくるまりひっぱります、積み木は積まれます、これらのおもちゃで遊ぶ子どもの姿がかんたんにイメージできるかと思います。そして大切なのは、どのおもちゃを選択したとしても、否定しないこと。その子どもがどのおもちゃを選択するかは自由です。権利です。表現です。人権は守られます。
 遊びと環境についてはいつまでも書くことができますが、本当に濃縮して申し上げるならば、最後の一つは、見守られているという安心感です。広々とした空間、管理された気温と湿度、潤沢なおもちゃ、これらがあったとしても、十分ではありません。もしかしたら、安心感が一番重要かもしれません。安心しているからこそ、不安から遠ざかり遊びに没頭できます。子どもは子どもだけで遊ぶことができますが、そこに生命の危険や、不穏な空気が漂ったとき、遊びが中断もしくは寸断もしくは断絶されます。文字通り遊んでいる場合ではないわけです。逃げなくてはいけません、自分の命を守らねばなりません、本能が逃走を指定します。闘争はしません、勝てるかどうかもわからないものからは逃げ出すように人間の体はできあがっています。そうでないとここまで種を存続させることはできなかったし、繁栄もなかったでしょう。私たちには先人が培ってきた自己防衛機能が備わっています。ですから、遊びには、安心が必須です。安心しているからこそ、生命の危険から遠ざかっているからこそ、遊べます。死亡遊戯的なイマジネーションも存在しますが、それは子どもの遊びとは縁遠いものです。大人の遊戯です。遊びの応用です。生命の危機、スリルは、一種の陶酔感をもたらしはしますが、その刺激だけでは多彩にはなれません。遊びとは多彩です。
 心地よい空間、おもちゃ、安心感、これらがあれば、子どもは心底遊ぶでしょう。スパイスを加えるならば、発展的な質問でしょうか、「どうしてそうしているの?」「その遊びはどこがおもしろいの?」「私も仲間に入れるかな?」または、特別感のある興味です、「それはすごい!」「どうやったの?!」「おもいつかなかった!」「さすがだ!」そして、穏やかな受容です、「わかったよ」「そうだと思った」「心から賛成するよ」こういったやりとりは子ども心をくすぐります。万能感に届きます。まだ余裕があるならば、ぜひ、視線を送ってください。子どもは遊んでいるとき、必ず大人を見ます。ふとした時に大人の目を欲しがります。この行為にはたくさんの意味付けが学術的になされていますが、私はシンプルに、『ちゃんとみてるかな?』だと思っています。安心感を与えてくれる人はそこにいるかな、どうかしら、いなくなっていないかしら、まだ遊んでいいかしら、どうかしら。応答的コミュニケーションが遊びの多彩さを援助します。反応があるから、表現します。SNSはいいねなどの反応がもらえます。だから、投稿する人がいます。人間はアクションにリアクションを求めます。それらの繰り返しが人間を人間にしてきたのでしょう。反応と表現、それらが集団行動を可能にし、自分よりも大きな動物を捕獲するための手段となっていったのだと本にありました。
 ちなみに、ここまで書いていて、だいたいのことが何かの受け売りであるということを正直に申し上げます。全くのオリジナルの記述ではないことをお断りいたします。私は先人たちが積み上げてきたものを、あたかも自分の言葉のように書いているに過ぎません。
 少しでも、子どもが遊びやすい環境が増えますように。子どもとは、未就学児だけを指しているのではありません。もっと広く、子ども、を捉えています。小学生にも中学生にも高校生にも大学生にも、もちろん大人にも、遊びは必要であると思います。それぞれのステージにおける遊びが充実することで、人生は必ず豊かになります。何を持って断言しているのか、ここにエビデンスを示すことができないのが歯がゆいですが、わたくしの実感としてそうだと言い切ります。遊びは大事です。蛇足ながら付け加えると、それぞれのステージにおける遊びは、それぞれのステージにおいて達成されやすい事象であり、別のステージだと実行すら難しいという局面も持ち合わせます。毎日仕事に追われている大人が自室で積み木を楽しむ、とてもオシャレな雰囲気ですが、大半の方が行っていないことだと思います。現代における大人は結果を欲しがり都会的であることの一つの結果として合理的な事象を好む傾向にあります。たくさんの場面で言い切っていますが、ほんとうにだいたいのことが受け売りです。
 子どもが大いに遊べるように、そして、大人も、遊びに寛容であり過度に結果を求めず、おおらかに子どもの遊びのそばにいられたら、ほんとうの意味で、子どもたちは遊びにのめり込み、本当の意味で遊びを卒業していくと思うのですがいかがでしょうか。と、誰に問いかけているのかわかりませんが(笑)

もっとここらへんのこと聞きたいよ的な要望ありましたら、コメントなどでお伝え下さい。一方的に書いているだけでは、それは、対話ではありません。対話が知の源泉である、これもどなたかの受け売りです。

お読みいただきありがとうございました(^^)

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