映画『海獣の子供』覚書

 ※この記事は全てネタバレです。見たくない人はすぐにこのページを閉じろ。今すぐにだ。

海獣の子供を観た


 米津玄師の『海の幽霊』のMVをYoutubeで聴いていて、James Blakeっぽいな~~~(バカみたいな顔)と思っていたのですがMVの出来が正気じゃないレベルで高いなと感じ調べたら映画主題歌とのことで、重い腰を上げ(体力が無いので実際に腰が重いと感じている)『海獣の子供』を観に行ったわけです。

 粗雑な感想ですが、後半以降あまりに古典的なマクロコスモス(宇宙)-ミクロコスモス(人間)観に基づく異様な映像体験が長々ともたらされ、無音で爆笑し続けていました。そりゃ多少は現代科学の知見に基づく表象のアップグレードはなされているわけですが、核に在る思想(そう、思想!あるタイプの登場人物たちが空間的にコミュニケートがあり得ないのにもかかわらず、スピリチュアルなレベルで交感を成立させている映画です)がこれほど古くゆるぎなくまっすぐなのは近年珍しいのではないでしょうか。

 原作読んでないので何とも言えないのですが、尺が足りていないという意見を貰いそれは同感ですし(部活、家族における亀裂と修復、資本と国家の"祭り"に対する介入周りの動きの描写が足りていない)、「大切なことは言葉にならない」と米津玄師も申しておりますが(デデは大切なことを言葉にしすぎ)、とはいえ、細かく考えたくなってしまう映画だと思うので、以下思いつきを箇条書きでぱらぱら書いていきます(全部を破綻なく体系的に説明出来る理解がまだ発生していないので……)。繰り返しますが原作を読んでいないので原作準拠で間違っていたらコメントをください、そっちが正しいので……

 (それにしてもカッコ()を使いすぎてリーダビリティが低くなりすぎているのではないか?自重しろ!したくないが?)

以下思いつき

①沖縄と内地(江の島)

 主人公の"琉花"という名前としばしば挟まれるハイビスカスのカットなどから彼女が琉球的なものを背負っている事が示唆される。内地的でないトーテムポールは茂みの中にひっそりと隠される。海くんが「これなに?」的に無邪気に琉花に問う神的対象は神社や地蔵など全て内地的な神々である(琉花も答える時若干戸惑い気味である)。琉花がしばしば部活で問題を起こし映画冒頭で部活への参加を禁止されてしまうのは、彼女が異郷の神であり、内地の神的秩序の強固さ(”部活”内での彼女を排除しようとする連帯に注目)によって排斥されてしまうからである。海での祭りが行われる前、琉花は海くんとの接触を行うが、その際内地の神に由来する祭りが開かれており、彼らは瞬間、その喧騒から隔絶しているかのように描かれている(静かな路地)。

②海くんと空くん

 海くんは黒人であり、空くんは金髪碧眼という典型的な白人(アーリア人的とさえ言っていい)描かれ方をしながら兄弟だと明確に指摘されている。隕石=精子をキスによって琉花に流し込み受胎させ、海くんより軽薄で海くんより早く”死ぬ”空くんは英雄的・男性的なものを背負って立つわけだが、ここで複雑になるのは海くんも男性であることである。空と海の対立という古典的原則から言って海くんは女性的なものの表象でなければならないはずだが、兄弟間の同性愛的戯れ、琉花に対する積極的エスコートなど非常に男性的な動きをすることも多い。ここで空くんが死んだ後のことを思い出してみると、海くんは有意味な言葉を喋らず、イルカショーのイルカと一緒に動物に回帰したようになる。そう言えば”ひとだま”のことといい、海くんは常に今から起こることを先取りしていたように思われる。そう考えると、この時海くんは赤ちゃんになっていたのであり、琉花の”出産”を予知しているのだ。海くんは未来を表象するという意味において女性的だという言い方もできるだろう。

③海の祭り

 祭りにおいてゲストである琉花は宇宙創成の再現に参加しつつも生還する。命限りある者の儚さによる光を見ることができた琉花を空くん(最終的には海くんでもあり海そのものでもある)はゲストに選んだ。黒人-白人、琉球と対立的・疎外的な表象だったものが全て溶けあい、特に空くんと海くんは融合して(だからこそ真っ黒=宇宙の空海くんは姿形が入れ替わり可能)、星雲を零れ落としながら死んでいく。

 なぜ一瞬明確な形をとった海くんが隕石を飲もうとするのを琉花は止めようとしたのだろう。そしてその動きが一つの精子として巨大な演劇の一部に落とし込められているのか。ここに僕は明確な答えが出せていないので歯がゆいのだが……一つは空くんの精子を巡って二人の女が争っているという考え方だが、これは劇中で琉花が空くんより海くんに魅かれていることから採用しづらい考え方だ。もう一つはそれを飲むことで自分の(仄かに)好きだった海くんが決定的に変質してしまうことへの恐れというものだろう。しかしそれをいうなら既に琉花自身が受胎、出産を経て決定的に変質しているはずであり、それを恐怖するのは場面的にも説得力がない(琉花は取り乱していない)。後考えたのは、琉花が好きだった海くんを男性として捉えており、受胎させる光を彼が飲むことに本能的に恐怖したというパターン、祭りの結末が分かってしまっており、彼がそれを飲んでしまえば彼が死んでしまうことが分かって嫌だったというパターンがあるが、どちらもいまいち納得感に欠ける。

 ともかくも「さよなら」の欠片である星雲の一つを飲み込み、琉花は人間と宇宙は等しく、全てが繋がっているという真理を体得する。

④なぜ琉花の家族はみな不器用か

 なにも、なにもわからん……

⑤ハイビスカスの上に散る破れた札束

 人間様の欲望は大いなる自然には無力ですね~はいそうですね~
 正直こういうところの描写がものすごく雑なのはどうかと思う。題材の中核が古いんだからコントラストとしての現代性をもっと立たせてほしかった。

④なぜ空くんは"その時"の予測を見誤ったか

 確か「満月の日までは間があるだろうと思っていたけど新月の日にもうその時が来てしまった」って感じで光って海になってしまいましたね。理由が分かりません。占星術周りを洗う必要がありそうですが……

④膝の傷

 これは完全に見落としているのですが、琉花の膝の傷はいつ完治しましたかね……?海の祭りによる、全宇宙的神的秩序の再演を通過した琉花にはもはや瑣末な人種や民族的対立は問題にならないので、ラストでの、部活との和解が示唆される部分は理解できるのですが(「あやまる」と言っていないのもポイントで、不正義と信じていながら内地の神に謝ることは琉球の屈服である)、タイミングを見逃してしまった……

⑤ラストで何故琉花はへそのおを前に「命を、断つんだ」と言ったか

 産まれた弟?妹?(友人が、母親が桃を差し出した後子供ができるの桃太郎じゃん!と言っていて納得しかなかったし、これ先に言われてなかったら見逃してたかもしれない。本当にすごいと思う)の臍を切るように言われる。なぜへそのおを切ることは命を断つことになるか。そのまえに子守唄について琉花に聴かれ、母親は自分の母親(つまり琉花の祖母)から教えてもらった、と言う導線がある。全ては繋がっているわけで、へそのおが繋がったままの母親と赤ちゃんは正に境界のはっきりしない、空海くんのような原初的な形態である。へそのおを切られることは宇宙から切り離される事である。混沌としての生命は断ちきられることで一つの命になる。それはマクロコスモスからミクロコスモスへの転換であって、彼/女はひとつの宇宙として人生を歩み始めるだろう。伝承された歌を歌いながら、最後は海を背にしたシオマネキ(狙いすぎ)の描写で終わる。

いかがでしたか?

 じゃねーよ。
 二回観る映画かと言われたら二回目の代わりに漫画読みたいな、という感じでした。とはいえ映像には本当に気合が入っており、祭りのシーンからは爆笑するしかない新世紀ニューエイジ見たいな映像がてんこ盛りになり最高です(超ひも理論の映像化か?というところもある)。久石譲の音楽もソリッドでよいので観に行く価値は全然あると思います。ので観れるうちに映画館の大画面で観ましょう。それでは。

延命に使わせていただきます