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登壇者と聴講者との境界が溶けた先に

イベント登壇ではたいてい「テラロック主宰」を名乗る。が、そもそも最近テラロックを開催していない。必要と思う場を自らがつくるのか。それとも、他者がつくる場で全力を尽くすのか。他者がつくる場では、予期しない刺激を受けることが多い。

先日、女性や若者の人材育成を担うプログラムで講義を担当した。1時間の講演の後、受講生全員がリレー型で登壇するトークセッションを実施した。急な登壇に困惑する受講生。しかし、集中して自らの思考をまとめるなかで、各人の内面に変化があったようだ。

ある女性は「今まで模索してもわからなかった、自分が求めていることを見つけた」と語った。登壇者と聴講者は、ともに良い場をつくる協力関係でそこに優劣はない。ただ、登壇する側にいる人が固定化されすぎた状態には問題があるのではないか。

登壇者と聴講者との役割の壁を溶かしたとき、何が起こるのか。ふいにステージに立ち注目を浴びる。緊張が押し寄せるなか、他者に何かを語るため自己の内面と必死に向き合う。そこで絞り出した言葉で、自分が気づいていなかった感情に出会う。

個々の内面の変化そして熱を帯びた言葉は、他者の感情を揺さぶる。熱気のあふれた空間に、私は新たな可能性を感じ気持ちが高揚した。講義を終え、あのような空間をつくるために必要な要素を考えた。

一つは、心理的安全性の高い場づくりだろう。特に既存の組織やコミュニティー内で実施する場合は、平時の心理的安全性に影響を受ける。もう一つは、自らが熱を発しつつ、相手の奥底にあるものを引き出すモデレーターではないか。

「認識のリフレーム」、初回のテラロックで語った言葉だ。私が場づくりで求めているのは「内面の変化や拡張」なのだろう。たとえ誰から求められずとも内発的動機づけによる「テラロック」を開催したい、そう思った。