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ダミアン・ハースト「桜」展は、「無題」展ではだめだったか?

スケジュールに押し潰されそうな時こそ、なにか挟むことが必要なのだと実感しました。
この日、ダミアンハーストの「桜」展を、朝一で鑑賞。

見られて本当によかったし、作品は素晴らしかった、けれど
たとえばこの展覧会名が「桜」でなかったらどうだっただろう。

私たちは作品のいったいいくつを、「Cherry Blossom」と認識しただろう。そういう可能性を見てみたかったな、とも思った。
特に、わたしたち日本人は桜に対する感度がおそらくは世界一高いので、そんな国民性がここで試せたとしたら?

もちろんアーティスト自身が、桜のシリーズを制作中なのだと言っているところで、そんなふうに鑑賞できた可能性は低いのはわかるのですが。

ひとつひとつに丁寧につけられたタイトルにしてもそうで
「神の桜」とか「知恵の桜」とかずいぶん具体的。

印象を限定したくなかったわたしたちはタイトルを見ないで、勝手にお互いの印象で「これは(スタバの桜)フラペチーノだ」とか「チェリー」だとか「幼稚園児」「分断」「情動」「青春の青だ」などと勝手に名付け、

最後に答え合わせをしてみました。

アートを鑑賞することは自分自身との対話だと思っているけれど
それはほとんどのばあいひとりで、もしくは美術に詳しい方と鑑賞に行くから。こうして自由に人と共有し、何分も同じ作品の前に立って
美術史やアーティストの特徴に照らし合わせるのではなく
思考の赴くまま、話すのは本当におもしろい。

やっぱり、アートは「問い」なのだと実感させられます。友人に感謝。

ギリギリのスケジュールで組み込んだ時間で、正直どうして予定しちゃったのか…と後悔すらしかけたというのに
みごとに桜にクリエイティビティを刺激され(たぶん)、
こんな感覚は何ヶ月ぶりだろうというエネルギーに満ちあふれ、
その後の週末はひたすら仕事が捗ったのでした。

余談ですが、このコレクションの中にはキエフが所蔵する作品もありました。日本に来た経緯や時系列はわからないけれど、運命により失われなくてほんとうによかった。

ゴッホのひまわりのように、世界に散った後に二度とみられなくなってしまったものもあるのだから。


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