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#9 学級経営の本質

これまで自分は「自分のために」担任をしてきてしまったと反省している。

授業は指導用教科書をただ教えるだけ。朝の会では、今日の予定を伝え、事前指導をする。悪いことをしたら、叱る。お楽しみ会を体育館でやらせているときに、すぐ顔を出さず、遅れていく。休み時間は宿題のハンコ押しと自分の仕事をするため、職員室へ。子供との私的な会話は極力しない。

これらの行動の目的は全て「自分が楽をしたいから」。そして「早く家に帰りたいから」。トラブルが起き、自分の評判が悪くなるのが嫌だから、教師という立場を使い、子供を管理する。

今思い返すと、ひどい担任だったと思う。すべての行動の目的が「子供のため」ではなく、「自分のため」だったように思う。

3月末、子供との最後の日。そこに別れを惜しむ子供たちの姿はなかった。当然である。「別れを惜しんでほしい」担任の言動はこれまでなかったのだから。

大学院生活を送るにつれて、この反省の思いは強くなってきている。「子供の成長のため」教員を目指したあの頃の「初心」を思い出さなければならない。

しかし、人間そう簡単に自分を変えることができない。人間だれしも「自分が一番」。なんだかんだ自分が一番かわいいのだ。いつ、どこでも、どんな状況でも、子供のために行動できる「神」のような人間(教師)なんているのだろうか。ま、いるとは思う。でも同じ反省はしたくない。どうせなら、最高の別れの日を迎えたい。

そこで自分なりの一つの答えを導き出した。それは「学級最後の日のために毎日を過ごす」ということだ。

教師も子供も別れを惜しみ、「この教室で一緒に過ごせてよかった」「最高だった」「ありがとう」と思えるような終業式(または卒業式)を想定して、その日を迎えられるような行動をとる。

子供の知的好奇心をくすぐる授業をする。一方的に叱らず、どうすれば改善できるかみんなで話し合う。お楽しみ会では一緒に楽しむ。休み時間は子供と遊んだり、コミュニケーションをとったりする。良いところを見つけ、ほめる。存在自体を承認する(愛する)。ユーモアのある話をする。

全てが「子供のため」の行動に変容する。最終目標を意識すれば、教師の行動が、言葉が変わる。これが今のところの自分の答えである。

尊敬する鴨頭さんは「自己中心的利他」という言葉を使っていたが、この考えがまさに上記の考えに合うように思う。

最後の終業式(卒業式)を「最高の日」にしたいのは、自己中心的な考えである。もちろん最高の日になれば、子供のためにもなるが、やはり自分が最高の日を迎えたいし、自分との別れを惜しんでほしいし、涙を流してほしいし、感謝されたいのである。つまり自己中心的である。

しかし一方で、そのゴールを達成するために、日々の行動や言葉かけを「子供のために」することは、利他の精神である。子供のために授業を工夫し、子供を理解するためにコミュニケーションをとり、子供の承認欲求を満たすために承認し、子供に居心地の良い場所を提供するために学級経営をする。すべてが利他につながる。

これが他己中心的利他にしてしまうと、すべてが子供中心になってしまい、それこそ先述した通り「神様」となってしまう。そこまで精神も体もタフな人ならいいが、自分には無理である。自分はそこまで、モタない。

だから「自己中心的利他」で学級経営をしていきたい。「学級最後の日を最高の日にするために、毎日を過ごす」。そうすれば日々の教師の行動が変わる。教師の言葉が変わる。コミュニケーションが変わる。態度が変わる。授業が変わる。ほめ方が変わる。叱り方が変わる。表情が変わる。考え方が変わる。

現役に復帰したら、ぜひ意識したいと思う。では。

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