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#1571 教育の経営と社会

内閣府では,日本と諸外国の若者の意識を比較することにより,日本の若者の意識の特徴及び問題等を把握し,子どもや若者の育成支援に関する施策の参考とするため,平成 30(2018)年度に「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」を実施した。

その調査によると,日本の若者は,諸外国の若者と比べて,自身を肯定的に捉えている者の割合が低い傾向にあり,日本の若者の自己肯定感の低さには「自分が役に立たない」と感じる自己有用感の低さが関わっていることが分かった。

また「社会をよりよくするために,私は社会における問題の解決に関与したい」と項目に肯定的に答えた若者の割合が,諸外国と比べ,とても低いことも分かった。

これらの結果から,日本の教育を受けた若者は「自己肯定感や自己有用感が低いこと」「社会貢献の意識が低いこと」が示唆される。

教育基本法では,教育の目的として「人格の完成」「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」が挙げられている。

しかし,上記のような若者の意識が見られることから,日本において,学校・教師に求められる「教育の目的」が果たされているとは到底言い難い状況であると言える。

自己肯定感や自己有用感が低い若者の人格は,望ましいものとは言えない。

また,社会貢献の意識が低い若者が,平和で民主的な国家及び社会を形成していくことなどできないと言える。

このような問題を解決するためには,現場の一教師レベルで奮闘するのではなく,行政レベル・学校レベルでの変革が必要になる。

以下では,上記のような問題に対して考えられる解決策を「経営」の視点から述べていく。

まず「経営」とは「資産(資源)を活用した価値の創造」であると定義できる。

そうなると,学校経営における創造すべき価値は,「全校の子どもたちの成長・発達」であると言える。

さらに範囲を拡大し,教育経営を考える。

教育の目的は「子どもたちの人格の完成」であるから,教育経営における創造すべき価値は,「全ての子どもたちの人格の完成」であると言える。

このような視点で行われる経営実践は,学校経営のレベルであっても,学級経営のレベルであっても,教育経営の一つの形であると考えられる。

しかし,学校や教師にこのような教育経営の視点はほとんどないだろう。

それは学校が公的な機関であり,教師が公務員であるからだと考える。

以下では,その理由を述べていく。

学校と会社などのビジネス組織を比較し,「自己革新」の有無を述べ,そこから「経営」の在り方を探っていきたい。

会社などの商業ビジネス組織は,利益・利潤を追い求める。

つまり,このような組織における「経営」の創造すべき価値は,利益・利潤である。

そのため,自分たちが喰いっぱぐれないように消費者のニーズやマーケットを常に意識し,組織を変化させていく。

社長などのトップがビジョンを示し,その他の細かいところは部下がニーズやマーケットに合わせて仕事を進めていく。

これにより,消費者から認められることで,社会で生き残ることができる。

これは,その組織が「自己革新」していると言える。

しかし,公的な組織にはその要素があまりない。

市役所や学校など,利潤を求めなくていい公的な機関は,前年踏襲の方針・取組をすることが多い。

それは,消費者のニーズを意識したり,認められようとしたりしなくても,喰いっぱぐれないからである。

これは,「自己革新」しているとは言えない。

学校・教師は,文部科学省や教育委員会,管理職の言う通りに動く。

学習指導要領に準拠した教科書を教えることに終始している。

昔は,これでも成り立っていただろう。

しかし,時代が変わってきている。

学校と言う公的な機関にも,消費者・市民のニーズが入り込んできており,学校はそのニーズをくみ取ることが求められるようになった。

学校に過度な要求・注文をするモンスターペアレンツがその象徴である。

また,教師の「その場しのぎ」の教育活動や「学力至上主義による詰め込み」により,子どもたちは学習意欲を失い,受け身状態に陥っている。

これが冒頭でも述べたような,若者の意識の低下につながっている。

このような時代において,学校は「自己革新する組織」であらねばならない。

いつまでも前年踏襲の取組ばかりしていては,時代に置いていかれるのである。

現に,フリースクールや私立の学校が人気をもつようになり,公教育の立場が危うくなってきている。

さらに,教師主体の教育活動ではなく,子ども主体の教育活動が展開できるよう,子どもの実態や社会からの要請をくみ取るようにしていく必要がある。

このように,今の学校は「自己革新」していかなければならない。

そのためには,まずは管理職がビジョンを示す。

これが大枠となる。

そして,教務主任や研究主任などのミドルリーダーが,時代のニーズやその学校・地域・子どものニーズを徹底的に調べる。

時代のニーズであれば,「アクティブラーニング」「個別最適な学びと協働的な学び」「ICT の活用」などが挙げられる。

そして,それらだけでなく,その学校・地域・子ども特有のニーズや問題点も含める必要がある。

「学校の生徒指導トラブルの問題」「地域の過疎化の問題」「子どものコミュニケーション能力低下の問題」など,独自のニーズ・問題点を教職員で徹底的に洗い出し,ミドルリーダーが中心となってまとめていく。

その際,「公教育」という視点も忘れてはいけない。

学校が私事化しないよう,「公教育」としてどのような国民・市民を育成していけばよいかを検討する。

これが管理職のビジョンに含まれているとよいだろう。

このように,時代のニーズやその学校・地域・子どものニーズ,公教育としての育成すべき国民・市民像を描いたビジョンをくみこんだ教育実践・取組を全教職員が進めていく。

これが実現すれば,その学校は「自己革新」していくだろう。

さらに,子ども主体の教育活動が実現でき,子どもたちに当事者意識をもたせ,学習意欲や社会貢献の意識を高めることができるだろう。

学校は,「公的な機関だから」「喰いっぱぐれないから」「前年踏襲で何も問題ないから」ではなく,時代や学校・地域・子どものニーズをもとに,「自己革新」していく必要があるのだ。

そのためには,そのビジョンをもつ管理職と,その実践・取組を可能にするミドルリーダーの存在が欠かせない。

そのような管理職・ミドルリーダーが揃ったときに,学校は「自己革新」をしていくことができるのではないだろうか。

また,教育経営における創造すべき価値は,「全ての子どもたちの人格の完成」である。

しかし,この「人格の形成」は曖昧な言葉であり,その定義付けが必要である。

この「人格の完成」の定義について,教師の裁量が認められず,行政による強制的な定義付けが行われると,様々な問題が現れることが予想される。

全ての子どもを一律に同じような人間に育てることになり,個性が埋没する。

また,規定された人格からはみ出てしまうことが禁止され,それにより序列化が加速する。

逆に,教師の裁量が全面的に認められ,行政からの縛りが全くなくても,様々な問題が予想される。

教師間による定義付けの差が顕著に表れ,教育格差が生まれる。

また,それに応じた教育内容にバラつきが出るので,教師の個性により,受け持つ子どもの知識・技能に差が生まれ,人生が左右されてしまう。

このように,「教師の裁量」と「行政による強制」については,一方に偏ることは危険であると考える。

やはり両者のバランスが重要ではないだろうか。

行政が「人格の完成」だけではなく,「平和で民主的な国家及び社会の形成者」と規定しているのはそのためである。

このような大枠のもと,理想的な人格像を各学校・各教師がもつ必要がある。

そして,日本の教育システムはこの形をとっているのだ。

しかし,このことを教師たちが自覚しているかは甚だ疑問である。

教師たちは多忙に追われ,目の前の業務をこなすことに終始している。

このような状態で日々,子どもたちの「人格の完成」を意識しながら教育活動をするなど,できないのではないだろうか。

ましてや上記でも述べたように,学校は公的な機関であるため,利益・利潤などの「価値の創造」はしなくてもよい。

毎日なんとなく業務をこなしているだけでも,仕事を続けていくことができる。

よって,学校では「教育実践」「教育活動」はなされていても,「子どもたちの
人格の完成」という価値の創造までは実現されないので,「教育経営」はなされていないと言える。

学校現場には,「教育経営」の視点が必要なのである。

そのためには,大学での教員養成や教員採用試験の在り方が見直されなければならない。

大学における教員養成では,講義型の授業が大半を占める。

また,教員採用試験でも基礎・基本となる一問一答形式の問題が出題されることが多い。

教師になるためには,確かに基礎・基本が必要である。

しかし,そのような基礎・基本を身に付けていたとしても,教育の目的を自覚できていなかったり,「自分のため」しか考えていなかったりするようでは,教師としての資格はないと言える。

大学における教員養成においては,「教育の在り方」「教師としての生き方」など,唯一解のないようなテーマで他者とディスカッションをするような授業が必要である。

また,教員採用試験においても,集団討論などのディスカッションをさらに重視し,教師としてのマインドが適切であるかを見極める必要がある。

このような大学での授業,採用試験を通して,教師としての在り方や教育の目的を自分なりに自覚できるようになる。

このように,教員養成・採用の在り方を質的に転換していくことが求められるのではないだろうか。

また,「教師の働き方改革」が叫ばれているように,教師は多忙に追われ,目の前の業務をこなすことで必死になっている。

そこに「学力向上」も求められると,いかに子どもたちのテストの点数を上げられるかしか考えなくなる。

これでは,冒頭で述べたような若者の意識の低下につながる。

子どもの興味や関心に応じて,探究的に協働的に学びを深めていく教育活動が必要である。

そのためには,教師の多忙な状態を解消する必要がある。

教師に求められるペーパーワークや事務作業を撤廃し,子どもたちと向き合える余裕をつくり出す。

教師が「子ども主体」の授業づくりに集中できるような時間的環境整備が必要である。

また,家庭環境の変化により,子どもが多様化し,格差が広がっている。

そのような多様化に応じるためには,教師が対応できるだけの時間と余力が必要だ。

しかし,今の学校現場では,教師が多忙に追われ,子どもたち一人ひとりのニーズに対応することが難しくなっている。

もし,働き方改革が進み,子どもの多様化に応じることができたとしても,逆にそれがまた多忙につながる。

やがて多様化に応じることができなくなるだろう。

やはり,教師に「できること」には限界があるのである。

子どもの多様化に応じ,かつ時間と余力を確保するのは,現場の教師の力だけでは足りないと言える。

福祉や行政の協力が必要不可欠である。

学校や教師にとって「できること」「できないこと」の区別を明確にし,福祉や行政と適切に連携することが求められる。

その際に,外部機関と学校が「目的」「理念」を共有し,共に子どもたちの教育・支援を充実していくことが必要である。

これにより,教師に精神的な余裕が生まれ,子ども一人ひとりに応じた授業づくりを実現することができると考える。

以上のような取組や改革がなされることで,冒頭で述べたような問題点は減っていくだろうと考える。

そのためには,教師一人ひとりのもつ「マインドセット」「信念」を変容させていかなければならない。

教科書を教えることや目の前の業務に追われることに終始せず,子どもたちを「国家及び社会の形成者」に育成していく視点を忘れないようにしたい。

では。

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