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#1901 三つの主体性

学校教育における「主体性」とは何だろうか?

行きたくもない学校に通わされて、学びたくもない勉強をやらされている時点で、「主体性」など発揮しようがないのではないだろうか?

私はこれまでの記事で、「偽の主体性」について述べてきた。

過去の記事でも述べている通り、「教科書」「学習指導要領」というレールの上を走らされている時点で、子どもたちは忖度しながら学習を進めているのである。

「自由進度学習」などと銘打って、流行りの学習を展開していたとしても、俯瞰して見れば「ただやらされている」構図なのである。

それが一斉指導であっても、自由進度学習であっても、「真の主体性」が発揮されているわけではないのだ。

そもそも、学校教育である限り、子どもの「真の主体性」を全て尊重することはできない。

なぜなら、学校教育においては、子どもたちが大人になる上で身に付ければいけない基礎・基本があるからである。

それを「普通教育」として、いかにうまく子どもたちに押し付けるかが肝になっているのだ。

教育には「トレードオフ」の関係が存在する。

何かを教えているときに、同時に別の何かを教えることはできない。

つまり、教える必要のある内容を吟味する必要がある。

それが普通教育の内容である。

つまり、普通教育の内容は子どもたちに漏れなく教えなければならないのである。

それを「自由進度学習」という流れを利用して、子どもたちに計画を立てさせたり、学びのコントロール権を任せたりしたとしても、その学ぶ内容は限定的なのである。

このような構造の中で、「真の主体性」など発揮しようがないのである。

しかし、例外も存在する。

それが「総合的な学習の時間」「総合的な探究の時間」「特別活動」である。

この学習内容だけは、地域や子どもたち、クラスの実態によって、自由に規定することができる。

子どもたちにとって、「真の主体性」を発揮することが許される特別な時間なのである。

だが、それ以外の教科等の時間では、学習指導要領の縛りが存在するので、「真の主体性」を完全に発揮することはできない。

教師が学習材を工夫したり、出会いの演出を魅力的にしたりすることで、それに近づけることはできる。

しかし、それはどこまでいっても「忖度しろ」なのである。

いかにうまく「押し付けるか」にかかってくるのである。

ここまでの話を踏まえると、学校教育に現れる「主体性」には3つの種類がありそうだ。

1つ目は、「個別学習」「個別最適な学び」で現れる「忖度する主体性」である。

「自由進度学習」「けテぶれ」「自己調整学習」などが、これに当てはまる。

このような学習は、「自己学習力」を向上させたり、「学び方」を学んだりすることに役立つ。

しかし、習得する知識が無味乾燥なものとなりやすく、他者との協働も必然性がないものとなる。

このような学習が究極に達すると、もはや人間である教師の出番はなくなるだろう。

教師の仕事がAlに取って替わられる危険性が出てきてしまうのだ。

このような学習では、あくまでも学習内容は「教科書」の中にあるものとなる。

そのため、いくら自分で学習計画を立てたとしても、敷かれたレールの上を忖度しながら学習しているだけとなる。

なので「忖度する主体性」と呼ぶことができよう。

2つ目は、「オーセンティックな学習」「協働的な学習」で現れる「引き出される主体性」である。

教科等特有の見方・考え方を働かせ、他者と対話・交流する学習である。

このような学習は、「協働性」を向上させたり、概念的知識を獲得したりするのに役立つ。

しかし、教師の卓越性・教材研究に依存した学習となり、子どもたちはただ口を開けて待つ構図になりやすい。

教師の腕に左右され、「担任ガチャ」という話題にも関係してくる。

教師による膨大な教材研究が必要なので、持続可能性がない。

そして、いつまでも教師の腕に依存し、常に「教師の存在ありき」で学習を進めることになってしまう。

その一方で、教師の巧みな働きかけにより、子どもたちの知的好奇心がくすぐられるので、主体性が発揮されやすくなる。

教師の卓越した働きかけで、子どもの主体性が自然と引き出されるのである。

なので、「引き出される主体性」と呼ぶことができよう。

ここまで「忖度する主体性」と「引き出される主体性」の2つを整理した。

これらを折衷案的にミックスした実践構想が、以下の記事の内容である。

では、3つ目の主体性とは何だろう?

それは、「総合的な学習(探究)の時間」や「特別活動」で現れる「真の主体性」である。

この記事の前半で述べた通り、このような学習では、子どもたちの「真の主体性」が現れやすい。

それは、「学習内容がトップダウンで規定されていないため、忖度する必要がない」「教師が卓越性を発揮して、子どもたちの主体性を引き出す必要がない」という2つの理由からである。

学習指導要領の縛りがない分、子どもは忖度する必要がなく、教師から主体性を引き出される必要もないということだ。

自分たちで「調べたい」「学びたい」「考えたい」「なんとかしたい」と思うことができれば、おのずと「真の主体性」が発揮されるのである。

教師はその伴走者をすればよいのだ。

ここまで3種類の主体性を整理してきた。

「忖度する主体性」「引き出された主体性」「真の主体性」である。

学校教育では、この3つの主体性をバランスよく発揮させていくことが肝要となる。

つまり、自由進度学習のような個別学習も必要であるし、みんなで対話・交流・協働するようなオーセンティックな学習も必要であるし、学習内容を子どもたちに任せる総合的な学習や特別活動も必要なのである。

どれか1つの主体性に焦点化するのではなく、バランス配分を意識することが求められるのではないだろうか。

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