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#234 障害の社会モデル
「身体にどこか不具合(インペアメント)があれば,その人には社会生活を送っていく上での不利や困難(ディスアビリティ)が自動的に,機械的に,あるいは因果的に生じるものだ」と考える捉え方を「障害の個人モデル」あるいは「障害の医学モデル」と言う。
対して「ディスアビリティは,インペアメントによって生じているのではなく,周りの環境や制度,ルールなどが障害のない人(多数派)の都合に合わせて作られていることによって生じている」と考える捉え方を「障害の社会モデル」と言う。
つまり,障害を持つ人が生活上の困難を経験しているのは,その人が抱える心身の異常が原因なのではなく,社会が健常者の特性のみを基準に生成・発展してきたのが原因だという考え方を持つ必要がある。
そして社会全体で,障害を持つ人のニーズを受け入れ,社会的構造・ルールを変更していくことが求められる。
これが「合理的配慮」となる。
この考え方は,至極当然ではないだろうか。
人間は自分で,「障害を持つか持たないか」を決めて生まれてくることはできない。
それにもかかわらず,自分が障害者ではないことをいいことに,多数派が「自分たちの行きやすい社会」をつくり続けている。
学校という現場も同様である。
健常者である教師集団によって,多数派である健常児のために,学校の構造・ルールが決められている。
そしてそのルールに逸脱する子どもを「障害児」「問題児」とレッテルを貼り,排除していく。
しかし「障害の社会モデル」の考えに則るならば,従来のルールを逸脱したり,困難を要したりするのは,子どもの責任ではないことになる。
問題なのは,子どもの方ではなく,その子どもに困難を生じさせている学校の構造・ルールであると考える。
だから,どんな特性を持つ子どもでも,同じように学習ができるように学校の構造・環境・制度・ルールを柔軟に変更していくことが求められる。
この考え方を「インクルージョン」という。
そしてインクルージョンの考えを持った学校づくりが求められる。
「子ども本人」を変えることはできない。
変えられるのは、「学校」と「教師」の側だけなのである。
では。
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