シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を観ました


言わずもがな、以下ネタバレです。タイトルですらネタバレになるので「観ました」以上の感想は言えねえ。終わり。




ここに「書いている」という(自身の何かしらの琴線に触れた)こと自体がネタバレかもしれないが、もうそれは今更、ということで。
ただ、言語化に時間が掛かったと思う。ブログを「書こう」という決断にも時間が掛かった。特に何かを考察したいわけでもなく、ただの覚書と所感である。
誰かに吐き出したい気持ちもあったが、結局、こうやってこつこつと自分と対話することが一番心地良い。ので、やはり「書く」ことを選んだ。

終盤三十分(いやもっとあったかも)くらいから、ずっと泣き続けて、ぼんやりとしていた。今でも、何に泣いていたのかよくわからない。
ヱヴァンゲリヲンは、旧アニメと旧劇場版、新劇場版序破Qを一度だけ観て、今回シンを見に行くに当たって序破Qをもう一度見返した次第だ。ずっと、リアルタイムで追っていたわけでもないし、今回シンを観に行ったのも、ミーハー的な気持ちの方が強かった。終わりを観たい。それしかなかった。
旧劇のアスカとシンジの首絞めによる拒絶が好きだし、破のラストのシンジによるレイのエゴ救済が好きだから、趣味はまるで変わっていない。でも、当時もキリスト教に明るいわけでもなく、かなり雰囲気で観ていたところが大きかった。そもそも自身が、自己同一性を確立できていない時だ。(今も全く確立してないが、当時は確立していないということすら無自覚だった)

観てみて、誠実な救済の物語だと思った。めちゃくちゃ丁寧に終わりを描いている。もしかしたら、その丁寧さに泣いていたのかもしれない。MOTHER3のラストを思い出していた。ああいう、主人公主導の暗闇のカーテンコールが好きだ。主人公シンジによる、有終の美しいカーテンコールだった。

「現実と虚構は等価」だとゲンドウは言った。
新世紀エヴァンゲリオンという作品自体、メタフィクションであり、庵野監督自体も、創作の残酷さと救済、その間に掛かるメタフィクションの危うさを見つめ続けているように思える。キリスト教を踏襲しながらの、「神殺し」というワードにも顕著だ。シンゴジラにもその辺りの思想は色濃く感じられる。旧劇の人類補完計画は望んだ自死だったが、新劇の人類補完計画は文字通りの高次元転移だった。現存する宗教の、死後での救済に近い。

かつて、「何も叶えてくれない神など信じない」と泣いていた自分に、「人の考え方がわかるから宗教が好きだ」と告げた人間がいた。そこから宗教に興味を持ち始め、少しずつ調べるようになった。知れば知るほど思う。その人間は、心底「人間」が好きだったのだと。人の愛と、死。倫理と正義と生活観念。
違う宗教に通底する想いを知れば知るほど、「人間」という生き物が何を求め、何のために生き、何のために死ぬのか。その人間が得ようとしている自己同一性を知り得ることができた。特定の宗教を信じないからこそ、信じられるものがあることを知った。

フィクション(虚構)も一つの宗教のようなものだ。かつて大学の宗教文化論の講義で、「MOTHERというゲームも通底言語があるから、宗教たり得る」と書いたこともある。書いた時にも思ったが、虚構が人を救っても、虚構で還元されるのは現実だ。結局は現実が救われている。虚構に陶酔しても、本質的に現実を無視することはできない。
愛の込められた虚構は、現実への呪いにもなる。
シン・エヴァンゲリオンは、その辺りを極めて自覚的に描いていた。旧アニメや旧劇のセルフオマージュ。セットの向こう側。旧アニメの向こう。そして、大人になったシンジは走り出していく………。

数々の劇中の台詞が刺さってしまった。うろ覚えだが、以下に記す。

「アンタは生きることも死ぬこともできないだけでしょう」
「好きだけど、ここにはいられない」
「シンジさんは恩人で、仇で……」
「父親は肩を叩くか、殺してあげるかしかないのよ」
「独りがよかったが、ユイがいない孤独に耐えられなかった」
「僕もアスカが好きだったよ」

そんな、矛盾を孕む台詞が好きだった。
どちらかしかではない。両方あるのだ。相反する二つは、同一である。鏡合わせのように同一だ。
虚構が好きな人は現実をも愛している。表現は加害だし被害だ。弱いから強いし、強いから弱い。だから等価なのだ。
矛盾を愛せよ。それが人間だ。両義こそが人間だ。どちらもあるのだ。

そんなことを劇場で訴えられたから、考えている。今度こそどんな虚構で現実を愛してやろうか。次の愛と呪いを考えている。
繰り返し、繰り返し。終わった虚構と、終わらない現実と、やはり終わらない虚構と、いつか終わってしまう現実について。
ありがとう。さようなら。

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