3.11
あの未曾有の大震災が襲った3月11日に小学校6年生だった私も一年遅れながら大学を無事に卒業することになりました。この11年消えそうになることもあったけど、なんとかなってこれました。そんな私が卒業論文の最後に書いたあとがきを紹介します。
追憶と渇望
釜石なんて大嫌い。プリクラの機械もないし、赤と黄色のハンバーガーチェーン店には車で 2 時間 もかかる。早く東京に出て行って雑誌で見るキラキラした竹下通りで遊びたい。そんな ことを考えていた小学生時代。釜石というものにものすごく劣等感を感じていたのを覚 えている。 あの寒い日のことも鮮明に覚えている。友達と釣りして遊んだ後におばあちゃんがやっていたスナックに遊びに行くことを楽しみにしていたなんでもない普通の平日。
2011 年 3 月 11 日金曜日。
卒業式の 1 週間前で午前授業だった。宿題をやらないで学校に行っ たために放課後同じようなクラスメイトと居残り勉強をさせられていた。走りすぎて吐 きそうになりながら走り友達がいる漁港へと急いだ。あの日はなぜか釣りに行くことを 母親に伝えなければいけないような気がして胸がざわついていたが、漁港までたどり着 いて友達に会うと安心してそんなことは忘れてしまっていた。行きつけの釣具屋で釣具 を買って、潮がひいていて不思議に思ったが、釣りを始めた 14 時半頃。立っていられ ないほどの衝撃に、思わずしゃがんだ。自分と友達がいる地面が地割れを起こし始めて やっと地震であることに気づいたのだ。小学校で入念に防災教育がされていて、地震が きたら高台へ逃げることがすり込まれていたため、避難するかどうかの議論は友人間で は行われなかった。逃げた高台からただ茫然と迫り来る波を見つめるしかなかった。あんなにも大嫌いだったまちが目の前で抵抗できないものに壊されていく時、何かが終わりを告げ同時に始まりの兆しすら感じていた。そのくらいいつも遊んでいた公園や見慣れた景色が津波に飲み込まれていくことに抵抗できなかった。1 ヶ月遅れて入学した中 学校では、非日常が待ち受けていた。学校指定のジャージも制服も受け取る前に津波で 流され着れずに私服や先輩からのお下がりを着て、中学校が避難所になっていたため中 学校から中学校に登校して中学校に帰宅する友達もいた。半年も経てばそんな非日常も日常となっていった。そんな中で私自身も同世代に希望を見出してほしくて、吉本興業に手紙 を書き直談判して母校の小学校でお笑いライブを開催したのは 2012 年の7月のことだ った。震災後 PTSD(心体外的ストレス性障害)になって円形脱毛症と幻聴、幻覚に悩まされていた私を元気付けたのはお笑いだけだった。そんな活動をしていると、震災の混乱期真っ只中で出会う復興に前向きな大人たちに影響され釜石を悲観的な目で見ることはどんどんなくなっていった。中学校に上がると倉庫のようなプレハブに引越しをした。応急仮設住宅という公営住宅が建設されるまでの二次避難場所であった。入居当 初は3年と言われていた仮設住宅だったが結果7年間暮らした。そんな仮設住宅に住む中で、誰も仮設住宅を「家(いえ)」と呼んでいないことに気が付いたのだ。 「仮設に遊びに行くね」「仮設に帰る」と日常的に仮設と呼んでいた。同じく仮設住宅 に住んでいた友人になんで家と呼ばないのか聞いたら「震災前の家が私の家だから、仮設は仮設でしかない」と教えてくれた。誰もが心のどこかにそう思っていたはずだった。 震災前の家にあって仮設住宅にないもの。それは愛着と思い出だった。私は仮設住宅に カラフルなマグネットを貼ることにした。地域の NPO や市役所、東京のラジオ局、マグ ネットを作っている会社、芸術家、住民、全国からのボランティアのみんなの家で作り 上げたものだった。監修してくれた東京藝術大学の日比野克彦教授は私にこう言ってく れた。「どのアートにも歴史的背景がある。世の中の不満や悩みがアートの源になる。 寺崎さんの今回のマグネットアートも東日本大震災という大きなものが君にもたらしたものなんだ」と。
私は昔も今も釜石に期待していたのだと気づいた。先人に聞かされる昔の都市的だった釜石を羨んで、衰退していくばかりでどうにもならない釜石に憤りを感じていた。同時にどうにかなってほしいと期待を寄せていたのだろう。それは、都市的だった釜石と衰退していく釜石を別物と考えていたからだった。卒業論文のインタビューで釜石市長である野田氏が、都市的だった釜石の歴史は今でも私たちに脈々と受け継がれていると話してくれた時には、涙が出た。私は歴史の流れの中にいて、昔の釜石があるからこその今の釜石に暮らしている。そんな当たり前のことを再認識した。今でも思い出す。震災前の釜石の街並みを。どこに行っても誰かが声をかけてくれたあの繁華街を。11年が経った今でも些細なことをきっかけに都会の真ん中で 思い出して感傷に浸る。震災がなかったら自分の人生はどうなっていただろうか。今頃 何をしていただろうか。きっと何かで自分を奮い立たせてどこかで懸命に生きているか もしれない。だが、震災のない人生は想像もつかない。震災のある人生を生きている今の私は、 生きていることを後悔する日もある。今生きていることを、あの日に他の人たちを差し置いて生き長らえたことを、誰かに許してほしいと望んで今日も東京という地で生きている。
11年経った釜石には仮設住宅もなくなり、私が行っていたアートプロジェクトも役目を終えます。
全国から想いと共に集まったマグネットを、現在配布しています。送料等はご負担していただくこととなりますが、下記のURLからお申し込みください。
この記事が参加している募集
よろしければサポートお願いします!NONSTYLEのライブのチケット代になります!!