踊らされず、踊れ。

本を閉じて、短く息を吐いた。体から出てきた二酸化炭素には、抱えてきた苦しみが少しだけ混じっている。読み終えるまでずっと張りつめていた気持ちが少しだけ緩んだ気がした。

自意識過剰という言葉が服を着ている。『舞台』の主人公・葉太はそんな奴だ。周りの目なんか気にしたことがない、何でもかんでもソツなくこなしてきた。サラリと器用に生きていく。そんな風に見せておいて、ソツなく見せるための努力は不断だ。周りに後ろ指をさされないよう、調子に乗っていると思われないよう、常にアンテナを張っている。そんな彼が、ニューヨークで貴重品など生きていくための必需品の入ったカバンを盗まれるところから、物語は始まる。さわやかさなどなく、葉太は常にイタイやつである。それでも、葉太のことを嫌いにはなれなかった。葉太が自分にそっくりだったからだ。

人の目が気にかかる。

例えば、短くて太い自分の指に、指輪をはめることができなかった。ほかの人みたいに細長くすらりと伸びた手だったら、アクセサリーショップで躊躇もしないのに。醜い自分の手にかわいい指輪を付けて、似合わないのに何調子乗ってんだよって思われたらどうしよう。どこにいるかもわからない、私のアンチが怖くて、そして何よりもそんな醜い手を持つ私がカワイイ指輪を付けるのは、正解ではない気がして、指輪コーナーは避けていた。

社会学者のゴッフマンは、人の行動を「演技」だという。人は舞台俳優のようにその場や環境に適した役となり、あるべき役を演じるのだ。舞台が変わると演じる役割も変わり、異なった行動が求められる。家庭で、職場で、電車で、趣味の場で。一人の人間があらゆる場所においてあるべき姿を演じるのだ。

無意識のうちに、舞台に立っている私達。そのこと自体がいいか悪いかどうかは分からない。そして、この本もどうあるべきかを示してくれない。この本が教えてくれるのは、私たちが舞台に立っているということだけだ。

だが、舞台に立っていること自体を知ることで私たちは次のステップへと向かうことができる。舞台に立ち続けて演じ続けるのもいいだろう、舞台から降りる選択をするのもきっとアリだ。ただ、大事なのは演じている役と自分自身を見つめ続けることだと思っている。そして、自分で決めることだ。

踊らされるのではなく、踊ることができるかどうか。

自分で踊ると決めたのなら、ステップを鳴らす場所がどこであろうと、何も知らないまま演じ、選ぶ前よりも幸せになれる気がする。そう信じている。

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