罪とバツ
2.訴状
二年前の冬、それは届いた。
よりによってオレのいない時間に。書留で彼女と娘がいる時間に。裁判所からのスタンプのついた事務的な書面には、申立人としてオレの部下の男の名が記載されていた。
しまった。
「誰なの?あなたなにしたの?」
案外と人間はこういう時、妙なことを記憶している。彼女が顔の前で組んだ指がわずかに震えている。手入れの行き届いた爪がテーブルライトに映えて綺麗に見えた。
「仕事の・・・・・・」
「仕事?なんでそれがうちに届くの?」
とっさに誤魔化そうとしたものの、彼女は大手出版社でライセンス管理部門にいるのだ。法務の知識も当然ある。言葉に詰まった。
「セクハラでもしたんじゃないの?」
「菜摘は黙ってて」
彼女の声が尖る。ソファでスマートフォンをいじりながらオレの帰りを待っていただろう娘が、母親の白い顔を見て、唇をすぼめた。
「部屋に行ってなさい」
「でも、ママ」
「大丈夫。ちゃんとあとで話すから」
辛うじて口許に笑みを浮かべて、拗ねたようだが本当は母親を気遣う娘に言葉をかける。菜摘は黙ってソファから立ち上がり、オレをじっと見て言った。
「夕方届いたの。ママずっとそこで固まってた。ちゃんと話してあげて」
そう告げるとリビングから出て行く。言葉には、子ども扱いの苛立ちとともに、母親を気遣う優しさがあった。もう子どもじゃないけど、あなた方の問題だから。でも傷つけたら許さないというオレへの宣言が含まれている。
菜摘が出て行くと、リビングは濁った水のような息苦しさに沈む。どこまで話せば、いや、どこから話せばいいだろう。そんなオレの内側を見透かしたように彼女は言った。
「いいのよ。ちゃんと話して。すべて、最初から。嘘をつかれると守り方も対処もわからなくなる。こういうときに誤魔化すと、あとで手遅れになるから、話して。」
オレを前にして解決するべき課題が目に見えたせいか、彼女は落ち着きを取り戻していた。面倒で感情的な場面ほど冷静になる。引き換えオレはどうすればいいのかわからず、言葉にならない。だってどう言えばいいんだ?なんて言えば少しはダメージを減らせるんだ?どこから、なにから話す?なぜバレた?どうしてあいつがオレを?なぜ?彼女がバラしたのか?ぐるぐると頭が空回りする。
「いいわ。じゃあ、この人は誰なの?」
妻が質問を変える。オレを見透かして。
「部下だ。前の。横尾だ。」
「そうね。ずっとあなたについて来た人よね?大阪でも一緒だったし。どうして?」
「いまは、札幌にいる」
「転勤したの?確かお子さんいらしたでしょ」
そうだ。2人の子どもがいる。わかってる。まだ下の子は保育園で、上は小学校にあがったばかりで、かわいい盛りだ。わかってた。
「うん。・・・・・・単身赴任してる」
「いつから?」
「去年の春」
オレが、飛ばした。
札幌は数字が伸び人手が足りなかった。即戦力でないと、おまえでないとやれない。実家は札幌だろ?頼むから。来週からだ。そう言った時、横尾の顔には歪んだ驚きが張り付いていた。
オレはそれが心地良かった。そんな気持ちはおくびにもださないが、この男がいなくなることで手に入るものを思うと、より冷酷になれた。小柄だが端正で真面目な顔がこちらを見返してくる。
「そんな急に?引き継ぎもできないですし、家族も準備できない」
「先に行って後から考えてくれ」
「嫁さんもこっちで仕事あるんで、急には無理ですよ」
「みんな事情はあるけど、だいたいこれくらいで異動してるんだから。客にもこっちから札幌の案件を捌いてた君ならすぐにでも対応できるからと言われてね。とりあえず単身赴任になるけど、頼むよ。」
そう、そうすれば時間は稼げる。この男が行けば、2人の関係はもう邪魔者がいなくなる。彼女に、紗江子に必要なのはおまえじゃない。オレなんだ。
オレは横尾の妻と、不倫していた。
いや、そうじゃない。横尾が紗江子をオレから奪ったのだ。
あの頃のオレは本心からそう思っていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?